新シリーズ<思い出の駅>が始まりましたご覧下さい!!
<別シリーズ 思い出の人・その1〜その10>
<別シリーズ 英国鉄道の旅・その1〜その10>

英国鉄道写真集
学研掲載<ロリアン&写真集>

ヨーロッパ鉄道の旅
2001年4月18日から6月16日までの約2ヶ月間のヨーロッパ大陸の鉄道旅行。鉄道大好きの角田様からの原稿をご案内させて頂きます。  前回までの英国全鉄道網羅のに引き続き<鉄道での旅>の素晴らしさに触れていただける事でしょう。地続きのヨーロッパ、いかにEUの時代とはいえ国境を越えればそれなりに空気・景色・食べ物、そして言葉も変わる。鉄道ならその変化の中に入ることができます。限りない驚きと<エッ!!>があります。 





1)緑のボヘミヤ地方を横断する
2)エルベの谷を下る(ドイツ
3)憧れのデュランス川をさかのぼる(フランス
4)ナルビック(スエーデン・ノールウエー
5)アオスタの谷をさかのぼる(イタリア
6)憧れのピレネー越え
7)フランス中央山地の旅
8)
ドイツ最奥部を行く
9)
北海沿岸ローカル線
10)
南ウエールズの谷を走る
11)
オリエント急行

 

 


「ヨーロッパ鉄道の旅;その1」

緑のボヘミア地方を横断する     (文責)角田昌夫


 ドイツで1ヶ月余を過ごした私は、鉄道でボヘミア地方を横断してチェコへ入ることにした。ボヘミアと言えば、自由奔放に生きる人を意味する「ボヘミアン」の語源になっている。たぶん人間を束縛しない自然に溢れた土地なのだろうか、私の好奇心を掻き立てる。2001年5月30日、いよいよボヘミアに向かって旅立つ日を迎えた。前夜の宿泊地「ニュールンベル」を発ち、列車でチェコの「ピルゼン」に向かう。工事中の駅舎を通りホームへ出ると、待つことしばしで国際急行列車「EC51 KARLSTEIN号」が入線して来た。列車はドイツやチェコの車両を取り混ぜて、色とりどりの編成である。後部の一等車両に乗りこみ、指定された座席を占める。

11時47分にニュールンベルグを発車した列車は、市街地を過ぎると緑の田園地帯を走る。本日の乗車効率は2割というところか、アメリカ人の中年夫婦が多いようだ。我が同胞はと探すが、とりあえず私以外の日本人は見当たらない。早速ランチをと、隣りの車両のレストランへ行く。とりあえずビールと、スパゲッティで昼食を済ます。通路の向かいに座るコロラドからのアメリカ3人組と、しばし言葉を交わす。列車は「ペグニッツ川」に沿って、一路北上する。川と同名のペグニッツの町を過ぎると、国境の山地に近づいたのか、列車は次第に登りに掛かる。旧東ドイツ側は産業開発が遅れた引き換えに、自然の緑が色濃く残っている。ドイツの鉄道には珍しいトンネルを幾つか通過し、蛇行する渓流を渡る。

13時過ぎにドイツ側国境の「SCHIMDING」に到着し、ドイツ側のパスポート検査を受ける。しばし停車した後、列車が発車するとチェコ側のパスポート検査が行われた。チェコがEUに所属していないため、ドイツの出国とチェコの入国のパスポート検査が二度も必要なのだ。とは言え社会主義時代に較べれば極めて簡略され、ただスタンプを押すだけだった。国境の境界線が見えるかと眼をこらしたが、迂闊にも見逃してしまった。

列車はボヘミア地方の中心部を目指し、緑の山波を縫って走る。この地方は、第二次世界大戦の前夜にヒトラーが強引に併合した「ズデーテン地方」に所属する。当時はこの地方に居住していたドイツ系チェコ人のドイツ復帰運動を理由に、ヒトラーはミュンヘン会談で英・仏にドイツ併合を認めさせたのだ。この歴史的場所を通過しながら、私はチェコ国民が味わった苦痛に思いを馳せた。

13時29分、列車はチェコ内最初の停車駅「CHEB」に着いた。沿線の家並みは、心なしかドイツより質素な感じを受ける。構内には、青と黄色に塗られたチェコ国鉄の車両が停まっている。ここから分かれる支線はディーゼルカー、本線は電化車両のようだ。しばしの停車の後、13時45分に「CHEB」を発車する。いよいよボヘミア地方の最深部に入ったようだ。分水嶺を越えた河川は、チェコ内部に向かい流れる。14時09分、この地方の中心地「マリエンスキー・ラーズニエ」に着いた。戦前はドイツ名で「マリエンバード」と呼ばれ、多くの観光客で賑わった温泉地である。往年の映画、「去年マリエンバードで」にも登場する。名声の割りに荒れ果てた駅構内を眺めつつ、再び発車した列車は緑一色の牧草地や林を縫って走る。樹木の間に見え隠れする清流は、スメタナの名曲「モルダウ」を思わせる。

列車は次第に高度を下げ、山地から平原を目指して快走する。遠方の山波にかかっていた暗雲が近づくと、列車は激しい雨に中に入った。屋根を伝い流れた水滴は、窓ガラスの視界を奪う。走ることしばしで突然雨がやむと、再び陽光が眩しく窓から差し込む。気が付けば、緑の原野に大きな虹が掛かっていた。

この世の楽園とも思われる風景に、我を忘れて私は見入っていた。もしこの世に天国があるのならこんな場所かと、私はただ息を呑むばかりであった。

かくして満ち足りた心の私を乗せた「KARLSTEIN号」は、15時07分に目的地「プルゼニ(ピルゼン)」に到着したのだった。

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「ヨーロッパ鉄道の旅;その2」

エ ル ベ の 谷 を 下 る       (文責)角田昌夫


チェコのプラハに5日間滞在した後、列車でドイツのドレスデンに向かうことにした。このコースはプラハを流れるモルダウ川(ブルタバ)を下流に向かって走り、ドイツ国境のエルツ山地を横断する。ドイツ側に入ると川は「エルベ」に名を変え、ドレスデンへ向かう。地図を見ただけで面白そうな路線に、私はさっそく挑戦することにした。

6月7日木曜日の朝、プラハ中央駅の7番ホームへ向かう。発車30分前であったが、すでにホームには列車が入線していた。これから乗る国際特急列車「PORTA BOHEMICA号」は、プラハを8時53分に発車するとドレスデン、ベルリンを経由して、終点のハンブルグには16時53分に着く。時間が許せば、全行程を乗ってみたい列車である。前日に入手した座席指定券で、一等車の席を探す。本日の乗車効率は2割というところか、例によって予約不要だった。周りの乗客の会話から察するに、またしてもアメリカ人夫婦が多いようだ。

定時にプラハ中央駅を発車した列車は、まもなくモルダウ川の鉄橋を渡る。席を立ったアメリカ女性がビデオカメラ片手に撮影チャンスを待つが、なかなか良いタイミングが得られないようだ。対岸に渡った列車は、モルダウの左岸に沿って下流に向かう。両岸には緑の樹木が繁り、ゆったりと流れる川面には大小の船が行き来する。このモルダウがドイツに入ると「エルベ川」になり、ハンブルグで北海に流れ込む。豊かな水量を見ると、とても上流とは思えない。

そのモルダウ川も、いつしか名前を変えて「LABE」になった。列車がドイツ国境の「エルツ山地」に近づくと、前方に緑に包まれた山波が現われた。その風景は、我が故郷群馬は赤城、榛名の山々に似ていなくもない。

11時過ぎに、チェコ側国境の都市「DECIN」に着いた。開けた谷の両側に広がる市街の前方には、エルベが深い谷を穿っているのが見える。特に出国手続きもなく、列車はドイツに向かって出発した。線路は左岸の斜面を、エルベ川の川面すれすれに走る。まだ上流のはずだが、かなり広い川幅いっぱいにエルベ水が流れている。海がない国であるが、チェコ国旗を掲げた大小の船が往来している。谷はいっそう狭まり、エルベの流れは深い渓谷を縫って流れる。

 11時半になったので、隣りの食堂車を覗く。すでに、ビールで気炎をあげているグループがいた。お決まりのピルゼン・ビールに、パスタで昼食を摂る。食堂車のマスターがチェコ語を話すところをみると、どうやらチェコの車両らしい。使い残したチェコ通貨で支払うと、先方も大喜びであった。お陰で使い残しのチェコ通貨を大量に整理できた。

列車は、歴史的に有名な「ズデーテン」の中心部に差し掛かったようだ。ヒトラーの領土要求の対象となった「ズデーテン地方」は、第二次世界大戦の遠因になった地方である。

また地理的にこの地方を考察すれば、山脈が河川を遮る分水嶺とならず、山脈の隆起とともに河川が深い谷を穿って貫流する「先行性河川」の地形を呈する。日本にも長野県の「犀川」などの例があるが、エルベの地形はその典型であろうか。

チェコ・ドイツ国境は狭い谷で、線路の脇には所狭しとばかり家が軒を並べている。ここでチェコとドイツのパスポート検査が二度行われたが、例によって形式的にスタンプを押すだけであった。

列車がドイツ側に入ると、谷はさらに狭く蛇行して流れる。対岸には奇岩が空を圧している。ドイツ側最初の駅「シェーナ」に停まる。ホームの下にエルベの流れが迫り、対岸にはチェコ側の税関らしき白亜の建物をみた。ドレスデンを中心とする「ザクセン地方」はゲルマン人の故郷で、ここから出発した一族がイギリスに渡った「サクソン人」である。なるほど人々の外見的はイギリス人に酷似しているし、ドイツ語自体も英語に良く似ているはずだ。エルベの谷を囲む山地は風光明媚で名高く、「ザクセンのスイス」なる名で呼ばれている。次の停車駅「バド・シャンダオ」は、待避線を有する大きな駅である。駅舎も石造りの、ガッシリとした建物であった。街そのものは対岸にあり、フェリーが運航されている。次の「ピルナ」では、川岸に船着場を見た。万国旗を掲げて停泊している船は、ここからドレスデンまでの遊覧船のようだ。狭いエルベの谷も次第に広がり、両側には住宅街が見えてきた。どうやらドレスデンの郊外に入ったらしく、駅構内の広い「ハイデナオ」に着く。この辺りから線路の付け替え、ホームや駅舎の新設工事を見る。旧東ドイツ地方には、各所に基盤整備の工事を見る。

まもなく列車が速度を落とすと、12時16分、ドレスデン中央駅に到着した。かくして、「エルベの谷越え」列車の旅は無事に終了した。

追記;チェコのプラハか、ドイツのドレスデンを訪れる機会があったら、この路線の「一乗」をお勧めしたい。

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「ヨーロッパ鉄道の旅;その3フランス」

憧れのデュランス川をさかのぼる       (文責)角田昌夫


 いつの頃からだろうか、南部フランスのローヌ川から支流の「デュランス川」をさかのぼる路線を発見した。そこは私が青春時代に上映されたフランス映画「河は呼んでいる」と同名の主題歌の舞台になった。先年のフランス滞在の折りに、その路線に乗る機会をえた。

前夜に宿泊した中央フランスの「クレルモン・フェラン」を早朝出発し、リヨンを経て昼過ぎにはローヌ河畔の「ヴァランス」に着いた。いよいよデュランスの谷へ入る時が来た。

発車まで1時間余あるので、駅のバーでビールを飲む。フランスはワインの国だが、ビールも捨てた物ではない。ほろ酔い気分で、入線中の列車に乗る。例によってユーレイル・パスの一等を用意したが、平日午後の列車はがら空きだ。フランス国鉄は、まだまだ客車列車を走らせている。電車やディーゼル車化が進んだ日本やイギリス鉄道から見ると贅沢な感がするが、これが本来の鉄道というものだろう。この路線は電化されてないのか、客車列車の先頭にディーゼル機関車が連結されていた。

14時2分、列車はヴァランスの駅を出発した。しばらく走ってローヌの谷に分かれを告げた列車は、東に向きを変え山間に分け入った。両側の山地が高度を増すにつれ、南フランス特有の白亜の崖が現われた。南の「マルセーユ」から北上した路線を合わせると、まもなく「ギャップ」に着く。紀元前にカルタゴの名将「ハンニバル」が象を連れてアルプスを越えた時、ここ「ギャップ」を通過している。「ハンニバル」が越えた峠を訪ねるのも、今回の旅の目的である。次のトンネルを越えると、デュランス川が見えるはずだ。私の胸は期待で高鳴った。

トンネルの暗闇から出た窓一杯に、青い湖が広がる。これぞデュランス川を堰きとめて出来たダムだ。向かいの山々を映した湖面に沿って、列車は走る。「デュランス川の流れのように…、かけろよ、かけろ、可愛いオルタンスよ」、いつしか私は「河は呼んでいる」の主題歌を口ずさんでいた。映画「河は呼んでいる」は、このダム建設にまつわる家族の転変を少女「オルタンス」を中心に描いていた。その「オルタンス」を演じた女優が、「パスカル・オードレー」であった。因みに彼女の娘さんは、日本で活躍していた「ジュリー・ドレフェス」さんである。最近この映画を再び見たが、さすが親子である。二人が良く似ていることを、再認識した次第である。

通学の時間帯になったのか、学生の乗り降りが増える。田舎の駅で女学生の一団が、どっと乗り込んで来た。ペチャクチャお喋りするお嬢さんや鏡に向かって化粧を直す娘さんと、いずこも同じ光景が繰り広げられる。さすが携帯電話でお喋りをする娘さんは、見かけなかった。

古くから「ローヌ川」に流れ込む幾つかの支流は、姉妹に例えられてきたらしい。長女にされた「デュランス」は、たびたび大洪水を起こしたので、「お転婆娘」や「阿婆ずれ女」に例えられてきた。その中流にダムを建設したのは、洪水対策だったのだ。ダムによる治水の安全と交換に、周囲の環境が変化し自然が失われたらしい。

しばし湖岸を走った列車は、17時19分に「Embrun」に着いた。ここから湖に別れを告げ、列車は「デュランス川」の本流に差し掛かる。谷は狭まり、両側をアルプスの高峰が囲む。前山の背後には、雪を戴いたアルプスの主脈が顔を見せる。この一帯は「ドーフィネ・アルプス」と呼ばれ、最高峰は「エクラン(4003メートル)」である。列車は交換待ちを繰り返し、だいぶ遅れが出て来たようだ。

デュランス谷の最深部に差し掛かった列車は、氷河が溶けた白濁の激流を右に左にと進む。再三再四、鉄橋を渡りトンネルをくぐる。前方に見える峠が、ハンニバルが越えたという「モン・ジュネーブル峠」だろうか。列車は谷の最深部を越えたのか、開けた盆地に出た。沿線には家や耕地が現われ、工場の煙突らしき物も見える。どうやら、終点の「ブリアンソン」に着いたのかもしれない。

列車は17時50分、1時間遅れでホーム2面のブリアンソン駅に到着した。

かくして、憧れのデュランス川を遡る私の旅も、無事に終着を迎えた。

 


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「ヨーロッパ鉄道の旅;その4 スウェーデン・ノルウェー

はるばる来たぜ、ナルヴィク!     (文責)角田昌夫


 ノルウェー北部の北極圏に、一年中凍らない港があるという。その港「ナルヴィク」を、鉄道で訪れることにした。スウェーデンの首都「ストックホルム」から夜行列車が、ナルヴィクまで走っているという。鉄道愛好家としては、これに乗らない手はない。

夕刻ストックホルム中央駅のホームへ行くと、これから1泊2日の旅に出る国際寝台列車「ノルトピレン(北の矢)号」が入線していた。朱色に塗られた長大な寝台車の先頭に、これも同色の巨大な電気機関車が待機している。とりあえず、予約していた二人用のコンパートに入る。ベッドは二段だが洗面台付きの設備は、至れり尽くせりである。

17時ちょうどにストックホルムを発車した列車は、市街地を走った後まもなく郊外に出た。17時44分、暮れなずむ「ウプサラ」を通過する。ここには、15世紀に創立された大学があるはずだ。乗車前に早やばやと夕食を済ませていた私たちは、ベッドの中から過ぎ去る風景に眺めいる。いつしか寝入ると、夜中に駅の通過をニ、三度、夢うつつで聞いたようだ。

早朝5時に眼をさまし、横になったまま窓のカーテンを開ける。鉛色の空をバックに、黒々とした森林のシルエットが窓を流れる。まもなく列車は、白々と明けた「ボーデン」に停車した。ここボーデンは、路線が東西南北の4方向に分かれる重要な分岐点を成している。これから列車は進行方向を左手に変えるが、右手に進めばボスニア湾に面した「ルレオ」に出るはずだ。地理の時間に教えたことがある輸出港として、訪れてみたい場所である。早朝のホームに下りると、小雨降る野外はピリットとした冷気が肌寒い。

7時16分、列車は「ボーデン」を離れると、スカンジナヴィア山脈を目指し内陸へ向かう。妻がビュッフェで買ってきたサンドウィッチで朝食を済ませる頃、窓外には森と湖の風景が広がる。隣りのコンパートにいた子ども連れの女性と、廊下で立ち話をする。ロスアンゼルスからオスロのご主人を訪問するのに、このコースをわざわざ選んだと言う。私に劣らず、鉄道旅行好きと見た。

沿線の樹木が次第に低くなり、湿原や草地が現われてきた。このあたり一帯は、スカンジナヴィア山脈から押し出された氷河が、地表を削り取った後の侵食地形である。草地の所々には、氷蝕の跡も生々しい「モレーン(堆石)」が露頭となって姿を見せている。9時近くだったろうか、原野の中に一筋の伐採地が現われ、石積みの三角ケルンを見た。地図を見ると、すでに北緯66度30分に達している。どうやら「北極圏」を示す標識らしい。空路で北極圏を越したことがあるが、陸路で入るのは初めてであり、しばし感動する。

10時20分頃、「イェリバレ(Gallivare)」に着く。ここも氷雨が降っていた。駅の道標に「ストックホルムから1315km」とあるから、東京から熊本の距離に等しい。当地で車両を切り離すため、前のオープンシートの車両に移る。沿線には林が消え、低い潅木と地衣類に覆われたツンドラ状の地形になってきた。やがて左手の遠方に、赤茶けたボタ山と高い塔が見えてきた。これぞ、かの有名な「キルナ」の鉱山である。ここキルナの鉄鉱石をノルウェー側の不凍港「ナルヴィク」に運び出すために、イギリスが莫大な資本を投資して建設したのがこの路線である。12時15分、列車はキルナに着いた。寒風吹きすさぶホームは、8月とは思えない寒さである。12時25分、列車はキルナを離れて、いよいよスカンジナヴィア山脈越えにかかる。

車内には、リュックサックに登山靴姿の人が大勢いる。聞けば、この先きの「アビスコ」へ行くという。13時40分頃、アビスコを過ぎると、風景はいっそう荒々しさを増す。列車は岩盤をくり抜いた切通しを、右に左にとカーブして走る。トンネルは少なく、スノーセットが連続して現われる。スノーセットに覆われた国境の駅を過ぎると、いよいよスカンジナビア山脈の分水嶺に差し掛かった。スカンジナヴィア山脈は、ノルウェー側に寄っているのだ。

ノルウェーに入った途端、眼前に物凄いU字谷が現われた。はるかに谷底を見下ろしつつ、列車は左岸の尾根を下る。ノルウェー側の最初の駅「カテラート」を過ぎると、長いトンネルに入った。列車はトンネル内でループを描いたらしく、トンネルを出ると谷底近くまで降りていた。この谷はフィヨルドの最上部で、静かな水面は海水である。

 列車は、この区間の圧巻であるナルヴィクへのラスト・コースへ入った。海抜0メートルのナルヴィクを目指して、左岸の尾根上をひたすら下る。眼下には、フィヨルドを一望する絶景が展開する。水面には波一つ立たず、これが海面とはとても思えない。谷は必ずしも一直線ではなく、右に左に蛇行している。谷に沿って走る列車も、右に左にカーブして走る。折からの雨で対岸の崖には、滝が白い帯びを描いて落ちている。急な斜面にへばり付く集落は、かつてヨーロッパ全土を震撼させた「ヴァイキング」の故郷なのであろうか。時たま行き違う長大な鉱石列車は、ナルヴィクに鉱石を運んだ後の空車である。逆にナルヴィク方面へは、鉱石を満載した列車が轟音とともに通りすぎる。牽引する電気機関車は、2両一組の連接機関車である。

 幾つかの駅を通過すぎ、先ほど見下ろしていた海面が車窓に近づいてきた。初めて対岸に懸かった橋を過ぎると、前方が開け水平線が見えてきた。ナルヴィクに面した「オフテン・フィヨルド(Often Fiord)」だ。沿線に人家や耕地、道路が現われ、列車はスピードを落とした。15時過ぎ、列車は2時間遅れで「ナルヴィク」に到着した。かくして、北極圏横断の22時間の旅が終わった。

 

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「ヨーロッパ鉄道の旅;その5 イタリア

 アオスタの谷をさかのぼる          (文責)角田昌夫


アルプスといえば、誰でもスイスを思い浮かべるだろう。風景の美しさ、旅の便利さ、清潔な環境など、どれをとっても旅行者には快適なことこの上もない。これが日本人観光客を、スイスに引き付ける理由なのだろう。

だが私は、同じアルプスでもイタリア・アルプスの方が好きだ。そこには、スイスにはない人々の陽気さや人間味を感ずるからだ。余りに清潔なスイスから、多少でも汚れているイタリアへ入るとホットするのは、私だけだろうか。

イタリア北部の中心地「トリノ」から、アルプスを目指してさかのぼる路線がある。この線は「アオスタの谷」を北上して、「モン・ブラン山塊」に行き着く。

私はこの谷をさかのぼり、谷の中心地「アオスタ」を経てフランスの「シャモニー」へ抜けることにした。

 トリノ・ポルタ・ヌオーヴァ(新門)駅のホームへ出ると、広大な構内の端にアオスタ方面の列車が待機していた。ミラノ方面への本線に較べるといささかくたびれた客車だが、ディーゼル機関車牽引の列車であった。13時25分、トリノ駅を発車した列車は、分岐点を何度も越えて郊外に出た。しばらくミラノに向かう本線を走り、「キヴァッソ」を過ぎると左に分岐する。列車はロンバルディア平野の端を北上する。14時23分に「イヴレア」に着くと、アルプスから流れ下った「ドラ・バルテア川」が現われた。「ドラ」と言えば女性の名前である。モン・ブランの南面から流れ出たドラ嬢とは、列車の終点まで付き合うことになる。この川の下流は有名な「ポー川」となり、末はアドリア海へ注ぐ。ポー川といえば、往年の名画「苦い米」と主演女優「シルバーナ・マンガーノ」を思い出すが、今の若い人には「過去の話題」なのだろうか。両側に低い丘が並ぶドラの谷へ入ると、森や原野が現われてきた。途中の駅で列車交換のため、しばらく停車する。向かいのホームにアイスクリーム屋を見つけた同僚が、わざわざ買いに行ってくれた。一行6人でアイスクリームを頬張ると、列車はアルプスの前山沿ってゆっくり北上する。この地方には、かつてフランス語圏が入っていたようだ。駅名にも「Arnaz, Verres, S.Vincent」と、フランス語風の名前が目立つ。線路の前方には、巨大な「マッターホルン山群」が立ちはだかる。15時2分に着いた「Chatillon―Saint Vincent 」から「トルナンシュ谷」を遡ると、「マッターホルン」の南面に突き当たる。スイス側から見た独特な山容のマッターホルンも、イタリア側では一変して平凡な姿になる。名前も「チェルビノ」では、いささか拍子抜けだ。

 北に向かって走っていた列車は、谷に沿って西に向きを変えた。谷の北には「マッターホルン(4478メートル)」から「モンテ・ローザ(4634m)」に繋がる山群が、南には「グラン・パラディーソ(4061m)」の巨峰がそびえる。とりわけグラン・パラディーソは、緑の原野の彼方に白雪の峰が聳え、その名のとおり「大いなる天国」を思わせる。マッターホルンに較べると地味な存在のグラン・パラディーソだが、それ故に私の関心を引いた。終点アオスタからバスで「コーニェ」へ行くと、この巨峰の全貌が目の前に現われる。15時23分、氷河から流れる白濁のドラの激流を渡り、列車は終着駅「アオスタ」に着いた。

ここアオスタは、北イタリアの「ピエ・モンテ地方」に位置し、「ヴァレ・ダオスタ(アオスタ谷)」の中心地である。ローマ帝国時代にアルプス防衛の拠点として砦が築かれ、その名を皇帝「アウグストゥス」に由来する。今日でも街の中心には、ローマ時代の凱旋門が残っている。

アオスタで一泊した後、翌朝ここからローカル線に乗り、更にアオスタの谷を遡る。9時48分、アオスタを発車した2両編成のディーゼルカーは、エンジン音も高らかに急勾配を登る。沿線の風景は、我が郷土群馬の後閑を過ぎた辺りに似ていなくもない。前方の前山が消えると、モン・ブラン山群の全容が現われた。青空に聳える白雪の峰々は、巨大な氷河を抱いて眩しく輝いている。列車はドラ・バルテアの流れを幾たびか渡り、トンネルをくぐる。幾つかのローカル駅に丹念に停まった後、列車は10時38分に終着駅「Pre ST Didier」のホームに到着した。

◎.ここからバスに乗り換えると、観光の中心地「クール・マユール」に着く。更にバスを乗り継げば「モンブラン・トンネル」を経て、フランス側の「シャモニー」へ至る。また、クール・マユールからケーブル、ロープウェイで、シャモニーまで行ける。なお、この旅行は1984年に実施したもので、今日では状況が違うことをお断り致します。

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「ヨーロッパ鉄道の旅6      フランス ・ スペイン

憧れのピレネー越え            (文責)角田昌夫

 「ピレネーの山の男よ、いつも一人、雲の中で、、、」、この歌を聞いたのはいつ頃だったろうか。その山中にベレー帽を被った「バスク人」という謎の民族が住むと聞いた。その時から私の心には、ピレネーを訪れバスクの民に会うという夢が続いた。そのピレネーをフランスからスペインへ横断する鉄道を見つけ、乗る機会に恵まれた。

南フランスの「ポー」に一泊した翌朝、ローカル線でピレネー山中を目指す。

屋根に大きなドームを戴いた「ポー駅」に行くと、ホームにはそれらしき列車が見当たらない。発車直前にふとホームの外れに目をやると、2両編成の木造電車が停まっている。もしやと思って近づくと、なんとお目当ての列車ではないか。ローカル線と言え、まさか時代物の電車とは!慌てて飛び乗った途端、10時18分列車はポーを離れた。これを逃すと、今日中にピレネー越えが出来ないところであった。

ポー川を渡った列車は、遥か前方に霞むピレネーの山波を目指し走る。すでにバスクの地域に入ったのか、沿線には赤屋根のバスク風農家が現われた。列車はトウモロコシ畑と、牧草地を縫って走る。車内は老若男女取り混ぜて、多士済済の顔ぶれである。もちろん遠来の客は、我々だけである。静かな田舎街「Oloron St.Marie」で「Oloron」川を渡ると、「Aspe」川の谷に入る。両側の斜面は上部まで耕され、バスク人の勤勉さを示している。11時32分に、終点「Bedous」に着く。次の列車の待ち時間を利用して、ピレネー山麓を散策する。近くのAspe川に行き、清流に脚を漬ける。林間学校に来たのか、賑やかな小学生の一団もやって来た。妻が村の店から買ってきたサンドイッチとジュースで、昼食を摂る。木陰を吹き抜けるピレネーの清風が、肌に心地良い。前方の谷の奥には、ピレネーの稜線が姿を現している。

そろそろ時間になったので、駅に戻る。ところがホームには、乗るべき列車がない。変だなと思い裏に回ると、何とバスが待っているではないか!ここからスペインまでは、バスが代行していたのだ。慌てて乗ると、幸いにも最前席が空いていた。

12時35分、バスは「Bedous」を離れた。細長い村の家並みが終わると、Aspeの谷を右に見下ろして登る。屋根に石を載せた家屋に、信州を思い出す。谷底には線路が見えるが、今は使われていないらしい。見上げるピレネーの稜線は、残雪を戴いている。鋭くえぐられた「カール(圏谷)」は、氷河時代の名残であろう。バスが停まると、国境の税関に着いた。フランスの検査官が乗り込んで来ると、後ろからパスポート検査を始めた。スムーズに進んだ検査も、私たち二人まで来ると停まった。アラン・ドロン張りのハンサムなフランス検査官は、我々二人のパスポートをしげしげと見やる。そのうちパスポート片手に、バスを降りてしまった。慌てたのは、私の方だ。何かトラブルでもと思い立ち上がった私を、周りの乗客が押しとどめた。「大丈夫だ。座って待っていろ。」と、目で合図してくれる。窓から外を見ると、税関事務所の中で例のドロン君が何やら電話している。待つこと20分、再びバスに戻ってきたドロン君は、「ボン(良し)!」と言ってパスポートを返してくれた。車内にも、ホットした安堵の空気が流れた。私たち二人のために待たしたことを恐縮した私に、後ろの乗客たちは「良いんだよ」と目で応えてくれる。察するに、近年出没する日本赤軍派の手配が届いていたのか。日本人がめったに通らないコースで起きた出来事であった。最前から気になっていた向かいの席のセニョリータ(お嬢さん)に、「フィニ(終わったのですか)?」と聞くと、「ウイ、フィニ(そう、終わりよ)」と笑顔で応えてくれた。それにしても、このお嬢さんの美人なこと。横顔が、ミロのヴィーナスそっくりだ。あの彫刻は理想化された架空の人物かと思ったが、似た人が実在するものだ。額から顎にかけたプロフィールは、ヴィーナスそのものである。大理石のように白皙の肌に、理知的な青い瞳が美しい。その隣りの席には、人が良さそうな年配の婦人がいる。二人でスペインへ行くのだろうが、このお嬢さんはフランス語しか話さない。スペイン語ならともかく、フランス語では話が進まない。

いよいよバスは、ピレネーの峠に近づいた。緑のスロープには、白い羊が点点と模様を描く。バスが「Somport峠」を越えスペインに入ると、今度はスペインの税関検査がある。陽気な検査官は乗客と冗談を言い合いながら、パスポートをチラリと見ただけだ。「Hapones(日本人だ)」と言っても、「シー、シー(ハイ、ハイ!)」と言うだけだ。フランス側の対応と余りに違うので、拍子抜けがした。スペイン側に入った途端、風景は一変した。斜面の緑が消えると、辺り一面に雑草が生えた荒地に変わった。「ピレネーの西は、アフリカだ」と言う言葉どおりの風景である。バスは九折の道を下ると、14時30分に麓の駅「カンフランク(Canfranc)」に着いた。ここから再び、列車の旅に戻る。鉄道全盛時代を思わせる大きな屋根の下で、「サラゴサ(Zaragoza)方面」の列車を待つ。先刻のヴィーナス嬢とセニョーラ(婦人)が、同じ列車に乗るのか近くに立っている。どこまで行くのか興味があったが、苦手なフランス語に質問をためらってしまった。我々に親近感を感じているのか、二人は笑顔で挨拶を送ってくれた。まもなく入線してきたディーゼルカーに身をたくし、今夜の宿「Jaca」へ向かう。かくして、私の永年の夢「ピレネー越え」は、無事に終了した。

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「ヨーロッパ鉄道の旅7    フランス

フランス中央山地の旅           (文責)角田昌夫

 国土の大半を平野が占めるフランスであるが、その中央部に古い火山性の高地がある。古くは「ガリア(ゴール)」と呼ばれ、ローマ時代には「ガリア戦記」を著した「シーザー」がこの地方に攻め込んだ。今日では「オーベルニュ」と呼ばれている地方を横断して、中心地「クレルモン・フェラン」へ行く鉄道がある。この度は、パリー周辺と違った趣を見せるフランス・ローカル線の旅を試みることにした。

前夜は陶磁器で名高い「リモージュ」に宿泊し、翌日の列車で「クレルモン・フェラン」をめざす。リモージュからクレルモンへは幾つかのルートがあるが、時刻表を調べて乗り換え無しで直行する列車を見つけた。午前中は市内をブラブラし、リモージュ駅でゆっくりとランチを済ます。ホームへ出るとローカル線扱いなのか、いささか草臥れた2両編成のディーゼルカーが待っていた。列車の最後部に座席数8ほどの一等車室を見つけ、例に寄って最後部の窓際に席を占める。平日の午後とあってか、普通車にも乗客の姿はチラホラ。一等車室は、私を含めてタッタ2名の乗客だ。

13時19分にリモージュを出発した列車は、次第にオーベルニュ高原の登りにかかる。いささか古ぼけた車両だが、エンジンは強力のようだ。列車はエンジン音も高らかに、急勾配を駆け上がる。狭い谷を流れる渓流沿いの風景は、我が郷土の渡良瀬川を思わせる。列車は田舎の駅に一つひとつ丹念に停車するが、乗客の乗り降りは僅かだ。

15時過ぎに、この地方の中心地「Ussel」に着く。比較的広い構内には側線が何本かあり、屋根付きの駅舎も大きい。「Brive」方面への乗り換え駅なのか、客の乗降が珍しく見えた。駅前の広場にカフェやホテルの看板が見え、家並みの背後に教会の尖塔が見える。典型的なローカル風景だが、降りてみる余裕がない。2分停車の後、列車は更に高原を目指す。谷が次第に浅くなると、風景が開けてきた。沿線の潅木が消えると、草原が現われてきた。どうやら谷を登り詰め、高原に出たようだ。遠くには、特異な岩峰を戴いた火山が見える。これが、オーベルニュ山地の最高峰「Puy de Sanshy(1886メートル)」らしい。古い時代に噴火して形成された山地は、長期にわたり浸蝕され「Puy」と呼ばれる山塊を呈している。広々と見晴るかす高原には、牛が草を食んでいる。その景観は、さながら信州の菅平を思わせる。

16時前に列車は、「Laqueuille」に着いた。右手に現われた線路は、ここから「ル・モンドール(Le Mont Dore)」へ行く支線である。時刻表を見ると、鉱泉で名高いモン・ドールへは所要時間20分で行けるようである。平屋の駅舎に、ホームが2面のみの駅であった。

列車は引き続き、なだらかな起伏の高原を走る。17時前、「ヴォルヴィック」に着いた。名水で有名な「ヴォルヴィック鉱泉」がある。オーベルニュの火山帯に溜まった伏流水を集めた工場があり、見学コースが設定されているようだ。

オーベルニュ高原の旅も、最終コースへ入った。左手の車窓はるか下方に、広大な平原が現われた。列車が平原を目指して斜面を下り始めると、はるか彼方に見えていた街並みが次第に近づいてきた。すべてレンガ色に統一された家々の屋根が、折からの西日を浴びて輝いている。列車が街を見下ろして回り込むので、車窓の真下に鳥瞰図のような景観が現われた。街の通りや通行人、商店の看板や車の動きが、手に取るように見える。家並みを抜き出て、寺院の尖塔が聳える。レールの響きも高らかに、列車はラストランに掛かった。市街地の狭い軒並みをかすめて、列車は走る。踏み切りに立つ人、狭い路地で遊ぶ子ども、買い物に向かう主婦等々、日常の市民生活が目に飛び込む。かくして列車は17時04分、終着駅「クレルモン・フェラン」に到着した。

「追記」

 クレルモン・フェランから鉄道網が、四方八方に延びています。近くにある鉱泉で有名な「ヴィシー」へは、30分で行けます。スペインへの巡礼路の出発地「Le Puy en Velay」へも、日帰りが可能です。さらに南には、鋼鉄の魔術師「エッフェル」が建造した「ガラビ」の大鉄橋があります(日帰りは不可能)。クレルモンに腰を据えると、オーベルニュの旅が楽しめます。

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ヨーロッパ鉄道の旅その8

ドイツ最奥部を行く                  (文責)角田昌夫

 ドイツの地図を眺めると、気になる場所がある。そこはザクセン地方の中心地「ドレスデン」から、さらに奥へ入った場所である。主な都市に目をやると、「ゲルリッツ(GORLITZ)」、「ツィタオ(ZITTAU)」、「コトブス(COTTBUS)」などが目に付く。この地方は、ポーランドやチェコと国境を接し、古来から幾たびか国境が入れ替わった民族のモザイク地方らしい。またドイツ統一前に旧東ドイツに属していた地方の変貌振りも見てみたい。因みに手元のガイドブックを幾つか当たって見たが、この地方の記述が見当たらない。ドイツ滞在の折に、この謎の「奥の院」を訪ねる機会を得た。

6月8日朝、ホテルで朝食を済ませ、ドレスデン中央駅に向かう。統一後の旧東ドイツでは、目下いたるところで建設ラッシュである。中央駅もご多分に漏れず、大改装中である。深くえぐられた掘割りを仮橋で渡り、案内板に従って構内に入る。歴史を誇る巨大なドームに覆われた構内に、通勤・通学の人々が行き交う。ホームで待つことしばし、目指す「ゲルリッツ」行き列車が入線して来た。折り返し運転になるが、日本のように車内清掃がない。行く先表示板を確かめて、一等車に乗り込む。二等車でさえ人影がまばらで、一等車は私独りである。ドイツの近郊列車は二階建てディーゼルカーの運行が多いが、長距離列車は客車が多いようだ。本日も長距離運行のため、ディーゼル機関車が牽引する客車列車であった。

9時06分に、列車はドレスデン中央駅を発車した。市街地を見下ろしながら高架軌道を走った列車は、まもなくエルベ川の鉄橋に差し掛かる。チェコに流れを発したエルベは、流れ流れてハンブルクの沖で北海に注ぐ。ドレスデンの辺りはまだ中流のはずだが、なかなかの水量である。車窓の右手には、由緒ある宮殿や教会の塔が林立している。走ること10分で列車は「ドレスデン・ノイシュタット(新市街)駅」に着いた。列車の中には、この駅を始発・終着駅とするものがある。駅前の広場には、市街電車の発着も見えた。

9時16分、ノイシュタット駅を出た列車は、すぐにベルリン・ライプチッヒ方面の本線を左手に分ける。列車は方向を東に変えると、早くも緑豊かな原野に入る。旧東ドイツ側は、西側に較べると自然が豊かに残されているようだ。それだけ開発の手が及ばなかったのか、今に思えば幸いなことだった。軌道はかなり整備されていて、列車は100km以上の速度を出している。縦ゆれ、横ゆれも少なく、乗り心地は上々と見た。

 9時48分に、列車は「BISCHOFSWERDA」に着いた。ここは「ツィタオ」方面の分岐点のためか、駅構内には側線がたくさん見られる。沿線の風景は、ますます緑色濃くなる。列車は、田舎の駅を幾つか通過する。次の停車駅「BAUTZEN」は、この辺りに居住するスラブ系住民「ソルベ人」の中心地である。今日でも住民は、彼ら固有のソルベ語を使用しているそうだ。そう言えばホームの表示板に、ソルベ語らしき文字を見た。市内には、ソルベ人の歴史、風俗を展示した博物館もあるという。時間が許せば途中下車したいところだが、ここが目的地ではないので通過する。

 10時03分に「BAUTZEN」を出た列車は、浅い谷間を縫って走る。時おり谷底にある集落を見下ろしながら、高い陸橋をわたる。レンガ色の家並みの屋根が、陽光に映えて輝いて美しい。いよいよ列車は、ザクセン地方の奥部に差し掛かったようだ。10時19分に「LOBAU」を出ると、再び低平な地形が現れた。線路に沿ってアウトバーンが現れると、11時10分に列車は終着駅の「ゲルリッツ」に着いた。

ゲルリッツはポーランド国境に接する街で、近くに「オーデル・ナイセ」で有名な「ナイセ川」が流れている。駅構内にカフェテリアを見つけ、早めの昼食をすます。不慣れなドイツ語の応対であったが、無事に早めの昼食を終える。駅舎を出ると、徒歩で「ナイセ川」を目指す。歩くこと10分で、緑に包まれた川岸に出た。意外に狭い対岸が、ポーランドである。渡ってみたかったが、時間がなかったので駅に引き返した。

再びホームへ出ると、次の「ツィタオ」行き列車を探す。見渡したところ、近くにそれらしい列車がない。遥かホームの外れに停車中の列車を見つけ、近づくと「ZITTAU」の表示があった。すでに発車間際とあってか、2両編成のディーゼルカーは満席である。人の良さそうな婦人の前に、軽く会釈して座る。

12時32分、列車はツィタオを離れた。市街地を抜けると、再び緑の草原が広がる。ここも開発工事中なのか、広大な土地が造成されている。何が出来るのか興味が湧いたが、それを聞くドイツ語に自信がない。地図によれば、列車は「ナイセ川」に沿ってポーランド国境を走るはずだ。見渡したが、それらしい川が見当たらない。ひょっとしてポーランド領へ入ったかと思ったが、入国審査もない。乗客に若い男女が多いが、この辺に学校でもあるのだろうか。田舎の駅を幾つか停車して、右手の下に家並みが見えたと思うと、13時21分に列車は「ツィタウ」に到着した。

 ツィタウの駅前も、ご多分に漏れず大工事中であった。広場の舗装を全部はがして、むき出しの地面が現れている。突然「ピー」とかん高いSLの汽笛が、鳴り響いてきた。広場の向かいに、小さな駅が見える。工事中の仮通路を通って行ってみると、小さな駅舎がある。案内所でパンフを貰うと、ここから3つの路線がチェコとの国境に延びている。軌間は762ミリの狭軌であるが、おりしも入線してきた蒸気機関車は動輪5軸の堂々としたEタンクである。間もなく発車なのか、蒸気をひときわ高く吹き上げている。車掌姿の女性が近づいてきて、「乗らないか?」と言う。今日中にドレスデンに戻るには、いささか時間が足りない。車掌に手を振りながら、涙を呑んで発車を見送った。

 さて駅舎に戻り、14時59分のドレスデン行きを待つ。この列車だと、乗り換えなしでドレスデンに直行できる。つまりドレスデン⇒ゲルリッツ⇒ツィタオ⇒ドレスデンと、三角廻りが出来るわけだ。6月にしては肌寒いホームで、列車を待つ。周りには、学生風の男女、ロマ(ジプシー)風の家族等が、三々五々と列車を待つ。良く考えるとアジア人の私こそ、もっとも異色の存在かも知れない。

発車間際に入線してきた列車は、今度もディーゼル機関車牽引の客車列車であった。後部の一等車に乗ると、14時59分定時にツィタオを発車した。往路に較べると、帰路はよりチェコ国境寄りの「ツィタオ山地」に近づく。地形は起伏が増し、美しい丘や谷を走り抜ける。時々通過する集落は、同じ家並の家々が整然と並ぶ。さながら一幅の絵を見る想いだ。見晴るかす山なみは、霞の中に緑のシルエットを浮かばす。15時25分に着いた「EBERSBACH」は、幾つかの路線の分岐点で、広い構内には側線が並ぶ。列車は次第に丘陵から平原に下ると、16時21分、往路に通過した「BISCHOFSWERDA」に着いた。再び平原を快走した列車は、16時46分に「ドレスデン・ノイシュタット」に着く。エルベ川を再度渡った列車は、16時58分に終着駅「ドレスデン中央駅」に到着した。かくして、ドイツ最奥部への日帰り旅行が、無事に終了したのだ。

お断り;GORLITZ, LABOUの地名には、「O」にドイツ語特有の「ウムラート」が付きますが、パソコンの都合で省略しました。

30Jan2002

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「イギリス鉄道の旅;その9」

北海沿岸ローカル線の旅         (文責)角田昌夫

 イングランド北東部のスカボローは、たびたびの訪問で私の第二の故郷になった街である。そのスカボローと、ハンバー川に面した港「ハル」を結ぶローカル線がある。地図を見ると、スカボローを発した線路は、しばし北海に沿って走っている。これは鉄道フアンの私には、見逃せない路線である。スカボロー滞在の一日、この路線に乗ってみた。

朝ホテルを出て、スカボロー駅へ向かう。北海の保養地として多くの観光客が訪れたスカボローには、かつて多くの路線が集まっていた。押し寄せる合理化の波で大半の路線が廃止され、今日ではヨークとハルへの2路線を残すのみになってしまった。一部の線は「ノース・ヨークシャムアー鉄道」として保存され、ボランティアの手で運行されている。今は2面を残すのみのホームへ出ると、一番ホームの前方に「ハル行き」の列車が停まっていた。車両はヨーク方面の新式「スプリンター型ディーゼルカー」に対して、こちらは旧式の「ペイサー型」である。例によって、2両編成の最後部窓際に座を占める。車内は人影もまばらで、見るからに赤字路線を思わせる。

8時53分、列車はスカボロー駅を発車した。かつての広大な構内跡を走ると、列車は緑の郊外に出た。左手の丘の上にある記念碑を眺めると、まもなく列車はヨーク方面との分岐点「シーマー」に着いた。ホーム一面の無人駅を出た列車は、右のヨーク方面と分かれて一路南下する。沿線は、緑一色の田園地帯である。列車の進行方向が東に変わると、前方に銀色に光る北海が見えてきた。次の停車駅は、北海に面した「ファイリー」である。この地もかつては保養地として栄え、ロンドンからの直通列車も出ていたという。今は寂れた駅舎だが、ホーム2面を覆うドーム屋根は鉄道記念物に指定されているという。9時07分に発車した列車は、再び内陸の田園地帯を走る。第二世代のディーゼルカーになる「ペイサー型」は、車体も老朽化してきたようだ。おまけに2軸の台車で上下振動が激しく、「ノッディング・ドンキー(首振りロバ)」なるあだ名を頂戴している。この辺りは寒村地帯なのか、人家も見当たらない。もちろん乗客もまばらで、昼間の乗り降りが少ない超ローカル線である。進行方向が南から東へ変わると、再び北海が現われた。9時29分、列車は沿線最大の街「ブリドリントン」に着いた。ここも保養地として、ロンドンから直通列車が訪れた場所だ。4面のホームに側線を持つ構内は、かつての鉄道全盛時代の名残なのか。駅から徒歩10分で着く海岸は、長く延びた遠浅な砂浜だ。列車は内陸に入ると、一路南下して走る。ただ緑一面の沿線は起伏にとぼしく、単調で日本の山線を乗りなれた私には刺激が薄い。逆に自然一色の風景は、北海道を除いた日本に見られない貴重価値がある。

沿線にはチラホラ人家が現われると、9時57分に、列車は「ビヴァリー」に着いた。若干の乗り降りの後、列車は「ハル」を目指してひたすら走る。

市街地が現われると、10時14分に終点の「ハル」に着いた。ハルは「ハンバー川」に面して、古くから貿易港として栄えた。本来の名称は「キングストン・アポン・ハル」だが、単に「ハル」と呼んでいるようだ。かの「ロビンソン漂流記」の著者「ダニエル・デフォー」も、この地にゆかりの人物である。

列車は巨大なドームを戴いたホームに到着し、1時間21分に及ぶ超ローカル線の旅が終わった。

◎なお、帰路はセルビー経由でヨークへ出て、再びスカボローへ戻るコースも可能です。

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「イギリス鉄道の旅;その10」

 南ウェールズの谷を走る        (文責)角田昌夫

 私の「シリーズ;イギリス鉄道の旅」も、いよいよ最終回を迎えた。掉尾を飾るにふさわしい路線として選んだのが、南ウェールズを走る線である。

かつて南ウェールズには数々の炭田があり、高カロリーを誇る「ウェールズ炭」は、広く海外にまで輸出されていた。これらの炭田と輸出港を結ぶ路線が、南ウェールズの谷を網の目のように走っていた。その有様は、わが北九州の鉄道網に似ていた。

旅の出発は、南ウェールズの中心地「カーディフ」である。ほとんど全ての路線が、カーディフに集中しているからである。初めに往年の名画「我が谷は緑なりき」の舞台となった「ロンダの谷」を、訪れることにした。「カーディフ中央駅」のホームに待機するのは、第二世代の「ペイサー型ディーゼルカー」である。例によって、最後部の窓際に席を占める。中央駅を出発した列車は、しばし市街を見下ろしながら高架を走る。下を走るロンドン方面への本線と分かれると、左にカーブを曲がり「カーディフ・クイーンズ・ストリート駅」に着く。この辺りはカーディフの繁華街で、大小のレストランや店が並ぶ。

右に「Rhymney」方面への路線と分かれると、まもなく列車は緑豊かな郊外に出た。昼間の車内は乗客もまばらで、駅ごとの乗り降りもすくない。「Radyr」の手前で、左にカーディフから来る別の路線を合わせる。そろそろ丘陵地帯に差し掛かったのか、ディーゼル・エンジンの響きが一段と高まる。前方には、ウェールズの山波が見えてきた。いよいよウェールズの谷に分け入った列車は、谷底を右に左に縫って走る。前方に二つの谷の合流点が見えてくると、列車は「Pontypridd」に着いた。これから目指す「ロンダ(Rhondda)」の谷が、左に顔を見せている。かつてロンダの谷に大小30数ヶ所の炭鉱があった頃は、この駅には常時列車の出入りがあり、構内には側線が網の目のように走っていたそうだ。今日でも使われていないホームが、荒れ果てたまま残されている。

 さて列車は、いよいよ左の「ロンダ」の谷を遡る。谷は徐々に狭まり、両側に山が迫る。途中の「Trehafod」には、かつての炭鉱地帯の生活を保存・再現した「ロンダ・ヘリテジパーク」がある。更に谷を登ると、両側には緑に覆われた山が間近にせまる。産業革命が華やかな頃は、谷の空は煤煙に覆われ、川は汚水で濁っていた。その情景は、ジョン・フォード往年の名画「我が谷は緑なりき」に描かれている。炭鉱が閉鎖された今、山に緑が川に清流が戻ってきた。人々は炭鉱の景気と引き換えに、自然を取り戻したのだ。

列車は、さらに谷を登り詰める。視界が突然開けると、幅広い谷の奥についた。緑に覆われた谷の底には、真っ白な住宅群が鮮やかに浮かび上がる。カーディフから1時間半で、終点の「Trehebert」に着いた。

 ホームの端に立って前方を眺めると、かつての線路跡が稜線に向かって延びている。緑なす高原一帯は、今日「ブレコン・ビーコン国立公園」に指定されている。駅周辺を散策した後、折り返しの列車で往路を引き返す。途中で下車して、「ヘリテジパーク」を見学する。帰路の列車を待つ間に、ホームで二人連れの男性と話す。かつて炭鉱夫として働いていた二人は、炭鉱華やかりし頃の思い出を話してくれた。空が煤煙で曇ったこと。列車が絶え間なく出入りしたこと。長期のストライキを全員で戦い抜いたこと。想い出は尽きないらしいが、残念ながら列車が到着した。

列車に揺られながら今は谷を埋める緑の山野を眺めると、私は思わず「我が谷は再び緑なり」と呟いていた。

◎ この他にカーディフを中心に、「Rhymney」線、「Merthyr Tydfil」線、「Aberdare」線、「Coryton」線など、かつての「網の目路線」の名残りを見ます。いずれも緑豊かな谷を走る路線であり、ぜひ皆さんの「一乗」をお勧めします。

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「ヨーロッパ鉄道の旅11」

 「出稼ぎオリエント急行の旅」      (文責)角田昌夫

このシリーズも、最終回を迎えることになった。最終回にふさわしい路線を取り上げようと考えた結果、ひと昔前の「オリエント急行の旅」を紹介することにした。時は1976年だから、もう今から20年以上も前になる。当時の東ヨーロッパは社会主義国全盛の時代であり、内戦で混乱した「旧ユーゴスラビア諸国」も「チトー大統領」の指導下で政情は安定していた。当時はロンドンを発した「オリエント急行」がパリを経由して、バルカン半島を横断した後、トルコのイスタンブールまで運行されていた。その全行程2000キロを、3泊4日で結んでいた。

空路でモスクワを経由してルーマニアのブカレストへ入った私たちは、ここから鉄道でブルガリアのソフィアへ着いた。かつてパリからイタリアのミラノまで、オリエント急行の西端部に乗ったことがあるので、今回は東端部を乗ることにした。

その1.「往路;ソフィア⇒イスタンブール」

ソフィア発の時間が午後2時なので、ゆっくりホテルを出る。巨大な中央駅の構内で昼食を済ませ、ホームで列車を待つ。前もって指定券をソフィア市内のツーリストで購入したが、その際もブルガリア語で苦労した。たまたま英語が上手な婦人に助けられ、何とか指定券を入手できた。さて定刻になったが、列車が現れない。この列車は2日前にパリを出たので、押せ押せに遅れているのだろう。列車がいつ現れるか分からないので、ホームに待機していなければならない。4時を過ぎた頃、それらしい列車が入線して来た。客車の乗降口に「イスタンブール」の行く先表示板を見つけ、ホット一息ついた。2日行程で2時間遅れは、上出来というところだ。指定券を片手に目指す車両を見つけ、車室に入る。室内は映画「オリエント急行殺人事件」でお馴染みのコンパートで、昼間のソファーが夜は二段ベッドに変わる。隣りの車室へは間仕切りが有り、室内には洗面台とトイレが設置されていた。

午後5時過ぎにソフィアを発車した列車は、一路イスタンブールへ向かって走る。ソフィアを取り巻く丘陵を越えると、列車は黄昏の「バラの谷」へ入った。両側を低い丘陵に囲まれた谷は、香水の原料になるバラが栽培されている。ところで天下のオリエント急行も、東の端へ来ると食堂車が付いていない。この情報を事前に知っていた私たちは、ソフィアで夕食のパンや牛乳、果物を仕入れておいた。さしもの「オリエント急行」も、この辺りではトルコ人の「出稼ぎ列車」と化しているようだ。乗客もトランクならぬ大きな袋を持ち込んだトルコ人が多く、さすがのオリエント急行も都落ちの感を免れない。夕食を早々に済ますと、後は眠るだけだ。乗務員がセットしてくれたベッドに入ると、レールの響きを子守唄にして夢路をたどった。

一夜明けると、列車は一面のヒマワリ畑を走っている。もうトルコ側へ入ったようだが、映画「ひまわり」のシーンさながらの風景が広がる。車両の前後を歩いてみたが、豪華なオリエント急行にそぐわないクタビレタ車両である。乗客も王侯貴族ならぬ、出稼ぎ帰りのトルコ人が多い。この辺りで、線路がギリシャ領に接近している。折りしも「キプロス島」の領有をめぐり、トルコとギリシャ間が緊迫している時である。線路の近くの基地には、戦車が待機する光景をみた。持参の朝食を終えた頃、西部トルコの中心地「エディルネ」に着いた。さすがに大きな駅で、構内には側線がたくさん並ぶ。やがて沿線には次第に家並みが増え、イスタンブールに近づく。右手に現れた城壁は、東ローマ時代の歴史的遺跡だ。まもなく前面に青く輝く「ボスポラス海峡」が現れると、11時過ぎに列車は終着の「イスタンブール・シルケチ駅」に到着し往路の旅を終えた。

 その2.「帰路;イスタンブール⇒ベオグラード」

さて、イスタンブールに5日間滞在した後、再びオリエント急行で往路を引き返すことにした。夕刻「シルケチ駅」のホームへ行くと、すでに列車が入線していた。オリエント急行の発着駅も、ホームが二面しかない。指定の車両を探していると、ポータらしい人が近づいてきて、有無を言わさず荷物を持ってしまった。目指す車両は目と鼻の先きにあるのだが、止む無く後を付いて行く。荷物を車室に入れてくれた彼に、何がしかのチップを上げる。西日が当たる車室には、熱気がこもっている。再びホームへ出ると、目の前にレストランがある。使い残したトルコ紙幣を思い出し、夕食をと思ったが時間がない。それに今回はレストランカーが付いていると聞いたので、レストランでの食事は見送ることにした。午後5時を過ぎた頃、列車はイスタンブール・シルケチ駅を発車した。市街地を抜けて郊外に出た頃、早めの夕食を摂りにレストランカーへ行く。まだ時間が早いので、客がまばらである。トルコ紙幣をかなり残しているので、夕食は豪遊することにした。スープに始まるコースに入った頃、車外には広大なヒマワリ畑が広がる。しかも左手には真っ赤な夕日が、今まさに地平線に沈むところだ。自然が生み出した雄大な景観を見ながら、ゆっくり食事を楽しむ。腹一杯詰め込んだが、まだ使い切れないお金が残ってしまった。車室に戻って、早めにベッドへ入る。真夜中にブルガリア国境に着いたようだが、ここでとんでもないハプニングに見舞われた。突然ドアを叩く激しい音に、私たちは眠りを破られた。慌てて飛び起き寝巻き姿でドアを開けると、ブルガリアの検査官が立っている。「パスポート・コントロール(パスポート検査だ)」の求めに、旅券を差し出す。ペラペラとページをめくっていた彼が、「ビザがない」と言う。往路にビザを見せていたので、「これだ」と指さしたが、「これは無効だ」と言う。聞いてみると、「これは一回だけ有効で、別のビザが必要だ」と言う。私のビザは一次ビザであり、往復に通過する場合は「数次ビザ」が必要であることを全く知らなかったのだ。強制的に下車させられるのかと心配したが、「一人当たり13ドル払え」と言われる。この場を、金で解決すれば結構なことだ。家内と二人分の26ドルを払って、通過を認めてもらった。それにしても、公正であるはずの社会主義国にも、「地獄の沙汰も金次第」があるのかといささか幻滅を感じた次第だ。ともかく下車せずに済んで、ベッドに戻ることが出来た。

再び車内で朝を迎え、持参のパンとミルクで朝食を済ます。昼前にソフィアに着いたところで、我々の個室に4人の男性が乗り込んできた。今回は6人用の個室寝台なので、満室になったわけである。三人のポーランド組と一人のユーゴ人の顔ぶれである。お互いに自己紹介をすると、「インテルナチョナル(国際的だ)」と、ポーランドのアンチャンが喜ぶ。この3人組みは面白い取り合わせで、小柄で陽気なアンチャン、大柄でノンビリした兄さん、中肉中背でインテリ風の紳士と対照的なトリオである。三人はブルガリアから帰るところだと言う。列車はユーゴスラヴィア領に入ったようで、夕刻に「NIC」に着いた。車内には、耐え難いほどの熱気がこもっている。廊下の窓が堅く閉まり開かないのをみた陽気なアンチャンが、持参のドライバーで開けてしまった。「テクニック(技術だよ!)」と、得意そうな彼。「ノンビリ兄さん」とは、英語、ロシア語、筆談を交えて、広島・アウシュビッツの被害について話す。「インテリ紳士」には、思い切って「貴方は共産党員か?」と聞いてみた。「いや、私は民主主義者だ」と答えた彼。ワレサ議長を中心とした「連帯運動」の先駆けを、彼はすでに抱いていたのか。列車はユーゴの内陸を走っているので、熱せられた空気が車内に入り込む。夕食時間になると、一同が持ち寄った食料を真ん中に車座になる。ユーゴのおじさんは我々の誘いに乗らず、隅で一人食事を摂る。「ユーゴは、別なんだよ」と、陽気なアンチャン。独自の社会主義路線を歩むユーゴを、冷やかしているようだ。就寝の時間になると、インテリおじさんが「マダムはここに寝て下さい」と下段のベッドを決めてくれる。私は、その上の中段に寝ることになった。

 レールの響きを子守唄に一夜が明けると、列車はユーゴスラヴィアの平原を走っている。ポーランド三人組も起きていて、朝食の準備にかかる。各自が持参した食べ物を出し合い、再び車座で食事をする。例のユーゴさんは、相変わらず隅で独り黙々と食べている。11時過ぎ市街地へ入ると、名前の通り白壁の町並み(ベオグラード)が並ぶ。まもなく列車は、ベオグラード駅に到着した。ポーランド三人組とは、固い握手を交わす。インテリ紳士さんは、妻に近づくと、手の甲にキスをした。慣れない妻が手を引こうとすると、これは「尊敬の表現だよ」と言う。かくして、「オリエント急行」の最東端往復を、無事に完遂することが出来た。

「追記」;私たちはベオグラード滞在の後、再び「オリエント急行」でユーゴスラヴィアの山中を横断し、イタリアの「トリエステ」に到着した。これで乗り継ぎではあるが、オリエント急行の全線完乗を果たしたことに

体験談<英国鉄道の旅・その1〜その10>

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