新シリーズ掲載中,ヨーロッパ思い出の駅、思い出の人、こだわりの駅
「ヨーロッパこだわりの駅;9」
エクセター(Exeter) (文責) 角田昌夫
エクセターは、イングランドの西南部に位置する「デボン州」の中心地である。ロンドンのパディントン駅から、ブリストルを経由して2時間余で「エクセター・セント・ディヴィッズ駅」に着く。エクセターには、この他に「エクセター・セントラル駅」、「エクセター・セント・トーマス駅」、「エクセター・リバーサイド駅」などがあるが、ロンドンからの本線は「セント・ディヴィッズ駅」に着く。
ホーム2面の駅構内は高台の下にあり、エクセターの名前の基になった「エクス川」が傍を流れている。駅を過ぎると線路は二手に分かれ、プリマスを経てペンザンスに向かう本線は直進する。左にカーブした線は急勾配を登ると、「エクセター・セントラル駅」に着く。かつてSLが客車を牽引していた頃は、列車の後部に補機(後押しの機関車)を付けて急勾配を登ったそうだ。エクセターの中心街は高台にあるので、「セントラル駅」で降りた方が便利である。セントラル駅を出た列車は、エクス川の河口にある「エクスマス」に至る。
さっそく市内を散策する
さて駅前広場からタクシーに乗ること10分余で着いたホテルに投宿した私は、さっそく中心街の探訪に出かけた。幸いにもホテルの前にバス停があったので、路線バスに乗る。中心街で降りると、例によって観光案内所や郵便局、バスセンターなど主要な場所をチェックする。木立の上には、エクセター大聖堂の塔が見えた。高台の端に行くと、急な崖が一気にエクス川に落ち込んでいる。急な崖道を降りると、エクス川の岸辺に出た。あたり一面はウォーターフロントになっていて、カフェやレストラン、土産物屋が並んでいる。ゆったりと蛇行するエクス川が、辺りの風景に溶け込んで美しい。川岸に面したテラスで、ビールとオムレツの昼食を摂る。流れに乗って泳ぐ白鳥に、しばし旅の疲れを忘れた。
エクセター大聖堂です。
エクスター周辺を乗り歩く
翌日からエクセター周辺の路線を、列車で乗り歩くことにした。最初に訪れたのは、セントラル駅から一路南下した「エクスマス」である。折りしも再開発中の駅舎は、工事の足場が組まれて雑然としている。セントラル駅とは言え、ホーム2面に中線が何本かあるだけだ。2両編成のペイサー型ディーゼルカーに乗り、一路南下する。市街地を抜けると、まもなく右手にエクス川が現れた。対岸にはプリマス方面への本線が、平行して走っている。たまたま長い貨物列車が、芋虫のように同じ方向に走っていた。エクス川の左岸に沿って走ること40分余で、終点のエクスマスに着いた。途中の無人駅では、ローカル線ならではの光景に出会った。ホームで抱き合っていた男女が、発車時間が来てもなかなか離れない。運転手も乗客も仕方がないとばかり、二人が離れるのを辛抱強く待っていた。終点エクスマスで、エクス川の河口を見て引き返す。エクセターへは、30分間隔のダイヤが組まれていた。
市街地の下に流れるエクス川は、市民の憩いの場所だった。
さてエクセター滞在の三日目は、北部の「バーンステイプル線」に乗ることにした。「セント・デイヴィッズ駅」から2両編成のスプリンターで2時間、半島を横断して訪れた「バーンステイプル」はブリストル湾に面した港町であった。イギリス屈指の沿線美を誇る「バーンステイプル線」は人口過疎地帯を走るので、何度も廃止の危機にさらされた。現在でも赤字は解消しないが、住民の生活路線として残されている。わが国で言えば、さしずめ「只見線」にでも当たろうか。近年では沿線の観光を売り物に、駅頭には宣伝パンフレットが置かれていた。
ダートムアを訪れる
エクセター滞在の目的が、もう一つあった。それは、「ダートムア」の訪問である。青年時代に「コナン・ドイル」の作品「バスカヴィルの犬」を読んだ私は、その舞台となったダートムアへの憧れを抱いてきた。荒涼とした原野を疾走する巨大な犬に、ダートムアのオドロオドロした風景が脳裏に焼きついた。
さてエクセターのバスセンターを11時15分に発車したバスは、エクス川を渡り郊外に出る。辺りは緑の丘陵と変わり、バスは狭い道をクネクネと走る。ときどき対向車が現れると、バスは片隅に寄ったりバックしたりする。本日は生憎の天候で、霧雨煙る丘陵の斜面に白い壁の家が現れる。山道を登ること50分で、終点の「Moreton Hamsted」に着いた。ここは、ダートムア東部の中心地らしい。狭い通りの角に一軒のパブを見つけ、とりあえず入る。ちょうどお昼を過ぎたところだが、店内には客の姿がない。突然の珍客にも拘らず、銀髪のお嬢さんが親切に対応してくれた。ここは定番ランチで、半パイントのビールとスープに茹でたポテトにする。ほろ酔い気分でパブを出て、街はずれの原野を探訪する。波のように起伏する丘は牧草で被われ、羊が点々と草を食んでいる。細いパブリック・フットパス(歩行者専用道)をしばし歩いたが、そぼ降る雨でしたたかに濡れたので引き返す。ダートムアの中心部はまだまだ先で、はからずもその一端を垣間見た感じになった。聞けば霧に巻かれて遭難する例が多いそうで、深入りは危険なようだ。再び「Moreton Hamsted」に戻ると、バスセンターでしばし待つ。バスセンターと言っても、石造りの小屋が一つあるだけだ。待つことしばしやって来たバスは、珍しく女性の運転手であった。14時05分、バスは雨煙るダートムアに別れを告げ往路を引き返した。
雨煙るダートムアに、人影はなかった。
「後記」エクス川に面したエクセターには、大聖堂を初めウォーターフロントや、数々の名所・旧蹟があります。鉄道フアンならずとも一見の価値があるので、ぜひ訪問をお勧めします。
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ウィトビー(Whitby) (文責) 角田昌夫 ウィトビーは、イングランド西北部の北海に面した港町である。この付近で生まれた「探険家クック」に因んで、この地方は「キャプテン・クック・カントリー」と呼ばれている。西北部の工業都市「ミッドルスブラ」からウィトビーまで、北ヨークシャーの原野をローカル線が走っている。「エスク川」に沿って走るこの線は、風光明媚な田園風景がつとに名高い。 ウィトビーめざして、さあ出発 私が乗った2両編成のペイサー型ディーゼルカーは、ミッドルスブラの市街地を抜け出て郊外を走る。低い残丘が残る原野を縫って、列車は右に左に走る。途中の「グロスモント駅」は、「ノース・ヨークシャ・ムーア保存鉄道」と接続している。かつてここから「ピカリング」までの路線が廃止される際に、有志が鉄道施設を引き継いで自主運行している。ここからピカリングまで16kmの北ヨークシャーの原野を、約1時間かけてはしる保存鉄道には一乗をお勧めしたい。 グロスモントを過ぎると、風景が一変した。低平な原野をゆったりと流れていたエスク川が、狭い谷に入り急流に変わった。線路はしばし渓谷に沿って走るが、再び流れが緩やかになってきた。どうやら河口に近付いたのか、エスク川が大きくカーブした先にウィトビーの市街が見えてきた。駅の手前でエスク川を高く越える鉄道橋は、かつてのウィトビー・スカボロー線の名残りである。煉瓦を積み上げた橋は、現在でも美しいアーチを描いている。列車がゆっくり入線するウィトビー駅は、行き止まり駅の構造になっている。 かつての繁栄を物語る幅広い構内にあった線路は整理され、ホームは対面の2面を残すのみである。煉瓦造りの立派な駅舎も、窓口を一つ残すだけでビュッフェさえない。ここにもイギリスの鉄道合理化が、如実に現れている。 ![]() 「ウィトビー港の風景です。エスク川の河口には、大小の船が繋留されていた。丘の上には、13世紀建立の修道院跡が見えます」
1960年代のイギリス国鉄当時から、鉄道合理化が始まった。有名な「ビーチング報告」に基づく赤字路線の廃止が始まり、これが90年代の分割民営化に行き着いた。この「エスク谷線」は、辛うじて「ビーチングの斧(赤字路線廃止)」を逃れて細々と運行されている。 ウィトビー市内を散策する さて、外見だけは立派な駅舎を出て、市内を歩いてみよう。駅前の「エスク川」に沿って、大小のレストランやパブ、土産物屋が立ち並ぶ。路上に大きな籠が置いてあるので、近寄って聞くと「蟹採り」の籠とのことだった。防波堤の先端まで歩き、エスク川の河口を覗いて見る。陽射しが眩しい青空だが、北海の波が荒々しく防波堤に砕ける。河口の左手の丘を登ると、緑の芝生に覆われた頂上に銅像が立っている。近寄って見ると、やっぱり「キャプテン・クック」の像であった。七つの海を航海しハワイで不慮の死を遂げたクックが、はるか新大陸を眺めている像である。銅像の台座には、クックの名言「To strive, to seek, to find and not to yield」が刻まれていた。 ![]() 「丘の上には、キャプテン・クックの銅像が立っていました。」 折りしも昼食時とあって、丘の下のレストランに入る。窓の下に北海を眺める席で、平目のムニエルを食す。もちろん、地ビールも注文する。イギリスの片田舎に突然現れた異邦人に、ウェイトレスは驚くこともなくオーダーを取ってくれる。昼間からほろ酔い気分で店を出ると、右岸の丘を目指す。丘の上には、古い修道院の跡が見える。13世紀に建立された修道院は、第一次世界大戦にドイツ艦隊の砲撃を受けたそうだ。 エスク川には、港に出入りする船のため可動橋が架かっている。ちょうど一隻の漁船が入港し、橋が中央部分で分かれて揚がり始めた。通行人は橋の両側で、辛抱強く通過を待つ。再び閉まった橋を渡り対岸に出ると、両側に店が立ち並ぶ小路にでた。小路を右に曲がると、丘を登る石段が現れた。丘を斜めに登る道だが、ビールの酔いが全身に回ってきた。喘ぎあえぎ石段を登ると、上から降りてきた男性に「もう少しだ。ガンバレ!」と励まされる。ようやく頂上に辿り着くと、目の前に古い修道院が現れた。丘の端からは、青い北海が足元に広がる。 ウィトビーに別れを告げ、帰途に着く 再び元の道をたどり、ウィトビー駅に戻った。ここからは、滞在地の「スカボロー」までバスで帰る。かつてはウィトビーからスカボローまで列車が運行されていたが、この線もビーチングに指定され廃止の憂き目にあった。駅の横にバス停留所を見つけ、しばしバスを待つ。後ろに並んだオジイさんが、何となくキャプテン・クックを思わせる風貌の人だ。「どこから来なさったのかね?」と聞くので、「日本からです」と答える。「日本は遠いとこなんだろうね。ワシなんがとても行けないとこだね」と、物凄いヨークシャー訛りで話す。「この辺りで、キャプテン・クックが生まれたそうですが?」と聞くと、「キャプテン・クックなんて、俺には関係ねえよ」と言う。折り良くやって来たバスに乗ると、最前席に乗り合わせることになった。途中の風光明媚な「ロビンフッド湾」でバスを降りたキャプテン・クック氏は、別れ際に愛想も良く「元気でな!」と言葉を残してくれた。いやはや、人は見かけによらぬもの。旅先での心温まる出会いであった。 かくしてウィトビー周辺の旅が、無事に終了した。 ![]() 「暗雲たれこめる北海の海岸は、日本海沿岸を思わせました。」 |
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パンティプリッズ(Pontypridd) (文責)角田昌夫 舞台を転じて、南ウェールズに移そう。南ウェールズの中心地「カーディフ」から、背後の山地に網に目のように支線が延びている。かつて良質な石炭を産出したウェールズ炭田が全盛期の頃、谷の空を煙で覆って石炭列車が上下していた。往年の映画監督「ジョン・フォード」は、名作「我が谷は緑なりき」でこの地方を一躍有名にした。その舞台となった「ロンダの谷」を、訪れる機会を得た。 南ウェールズの中心地「カーディフ」に旅装を解いた私は、翌日さっそくロンダの谷をめざす。ホテルから歩いて10分余で、カディフ・セントラル駅に着く。ホームで待っていた2両編成の「ペイサー型ディーゼルカー」に乗り、8時58分カーディフを離れる。高架軌道で市内を通り、郊外に出る。緑に包まれた市街地を抜けると、カーディフ背後の丘陵地帯に差し掛かる。浅い谷に沿って次第に高度を増すと、前方に二つの谷の分かれ目が見えてきた。 この谷の合流点に出来たのが、パンティプッリズの駅である。かつて南ウェールズ一帯の石炭産業が全盛の時、石炭列車が谷を上下した。今でも当時の面影を残す駅構内は、多くの側線とホームの跡が残っている。駅舎も石造りの立派な建築だが、内部は一部を残して閉鎖されている。駅舎の脇には、二つの谷から流れ出た川が合流している。パンティプリーズは、谷の合流点に出来た町だ。 終点の「Treherbert」駅の向こうには、廃線の跡が残っていました。 乗り換えのため、列車を降りてホームをぶらつく。たまたま熟年の二人組み男性に会い、しばし会話を交わす。彼らは元炭鉱夫で、在りし日の繁栄ぶりを話してくれた。この地方の石炭は高エネルギーで、カーディフ炭としてイギリス内外に珍重されたそうだ。かつての筑豊炭田が、黒ダイヤの名の下に持てはやされたのと同じである。エネルギー資源が石油に移ると、谷の繁栄も影を潜めた。網の目のように走っていた路線も、多くが廃線の憂き目に遭った。二人組みの元鉱夫は、戦後に起きた炭鉱の大ストライキについても話してくれた。炭鉱夫や家族が一致団結して、勝利するまでストは何ヶ月も続いたそうだ。外部からストの応援に駆けつけた人々の中に、歌手「ポール・ロブソン」がいたと言う。突然思わぬ人の名が出たのでビックリしたが、懐かしい名前にたいへん嬉しかった。ロブソンと言えば、私が青年時代に憧れた歌手ではないか。彼の「ダニー・ボーイ」や「オールマン・リバー」を、良く聞いたものだ。私がロブソンを知っていると言うと、彼らも喜んでくれた。南ウェールズ出身の有名人は聞くと、『隣りの谷から、リチャード・バートンが出たよ』と言う。その他に「ミック・ジャガー」や「アンソニー・ホプキンス」も出たと言う。だいぶ話し込んだが、列車はまだ到着しない。話題が映画に及ぶと、『ズール戦争を見たかね?』と聞く。見たも見ないも「ズール戦争」は私の大好きな映画である。映画は南アフリカの砦を守るイギリス軍と、現地の「ズール族」の壮絶な戦いを描いていた。砦を守った部隊が、南ウェールズの兵士だったのだ。主演の「マイケル・ケイン」は、私のお気に入りスターだと言うと、『それは嬉しい話だ』と喜んでくれた。30分も話したろうか、列車がやって来た。ウェールズの田舎で出会った人々との交流に、温かい心に満たされて別れを告げた。 折り返しの「Treherbert駅」。これがイギリス旅行中にお世話になった「ペイサー型」ディーゼルカーです。乗り心地の悪さから、「ノッディング・ドンキー(うなずくロバ)」と呼ばれています。 パンティプリズを発車した列車は、谷川を渡ると左の谷に分け入る。列車は谷の右岸を、川の流れに沿って走る。次の「Trehafod」には、「ロンダ・ヘリテッジパーク」がある。公園の中には閉山時の炭鉱施設が保存され、全盛期の炭鉱生活が人形などを使ってリアルに再現されている。列車が登るにつれ、谷の幅が広まってきた。浅い谷の斜面は緑に覆われ、その中に住宅の赤い屋根が鮮やかに浮かぶ。列車は谷の奥に登り詰めると、終点の「Treherbert」に着いた。ホーム一面の折り返し駅には、駅舎がポツント立っているだけだ。4分後に折り返すディーゼルカーに戻り、谷を下る。日中のローカル線は、人影もまばらだ。ついウツラウツラしながら、幾つかの駅を過ぎる。途中の駅で乗ったのか、乳母車を乗せた若い母親がいた。イギリスの車内では、乳母車や自転車を良く見かける。ふたたび「パンティプリーズ」を過ぎた列車は、一気に谷を下る。緑の山々に囲まれた南ウェールズの谷よ、産業は廃れたが緑が蘇ってきたのだ。かくして、「我が谷は再び緑なり」である。 ![]() ロンダの炭鉱資料館で出会った元炭鉱夫です。 彼は三池炭鉱の人々と交流があり、日本語で 「ガス・バクハツ(ガス爆発)」と言いました。 |
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マッハンスレス(Machynlleth) (文責)角田昌夫
話題をスコットランドから、ウェールズに移そう。「マッハンスレス」は中部ウェールズのアイリッシュ海寄りに位置し、かつてウェールズが独立していた時代に議会が置かれていた古都である。ウェールズはスコットランドと同様にイギリスの辺境にあり、スコットランドと同系の「ケルト人」が住む。山紫水明に恵まれた地に、個性豊かな人々が住むウェールズに魅力は尽きない。
「マッハンスレス(Machynlleth)」は、文字から分かるように英語ならぬウェールズ語である。綴りや発音を英語と全く異にするウェールズ語は、極めて難解な言語である。同じイギリス人でもイングランドから来た人は、チンプンカンプンな言葉だと言う。ウェールズ語の特徴の一つに、「LL」がある。これは英語風に「ル」と発音せず、「スル」と発音する。例えば「Llanelli」は「スラネスリ」と、「Llanberis」は「スランベリス」と発音する。また前半の「Machyn」の「chyn」は、スコットランドのゲール語と同じく「ッハ」と強く息を吐き出して発音する。イングランド人は、これを「カン」と発音する。従って、「マッカンスレス」と言う場合もあるらしい。何かと難解なウェールズ語だが、一時は死語に瀕したウェールズ語も今日公用語として復活が図られている。 さてマッハンスレスへは、イギリス中西部の「シュロウズベリー(一般には、シュウルスベリーと言われる)」から列車で向かう。発車して間もなく、列車は「セヴァーン川」を渡る。この川は、流れ流れてブリストル湾に注ぐ。列車はひたすら西に向かい、野越え山越え走ること1時間余で「マッハンスレス」に着いた。 マッハンスレスの駅舎は、この地方産出の石材を使って1863年に建造された。茶褐色に光る岩肌は、駅舎に荘重な感じを与えている。この駅舎は、近年イギリス全体で行われている歴史的建造物の復元作業で新たに整備された。ホームは直線の対面で2線あり、路線はこの先の「ドヴェイ・ジャンクション」で2方向に分かれる。右に行く線路は、カーディガン湾に沿って北上する。左に行くと、アイリッシュ海のリゾート地「アベリストウィス」に着く。どちらの路線も、鉄道フアンには垂涎のコースである。ホームに立って西の空を眺めると、左右を低い丘に囲まれた平地がドヴェイ川に沿って海に向かって開ける。緑の丘や原野は、正に田園牧歌の言葉そのものである。 重い戸を開けて駅舎内に入ると、清潔に整頓された待合室があった。ここでバッタリ、嬉しい出会いがあった。実は数日前、車内で日本人夫妻に出会った。めったに日本人に出会わない場所だけに、その奇遇にしばし会話がはずんだ。かなり高齢なU夫妻は、二人で旅するウェールズ研究者であった。再会を約して分かれた夫妻に、ここでバッタリ出合ったのだ。幸運にも夫妻から、ウェールズの苦難の歴史などレクチュアを受けた。これから列車に乗る夫妻と別れて、駅舎を出ると街へ向かう。正面から見た駅舎は、時代を超えた風格を
「修復が終わったマハンスレスの駅舎は、地元の石材を使った重厚な建物でした。」
備えている。日本の鉄道にも良く見られるように、この街も駅と離れている。案内板に従って歩くと、ほどなくマッハンスレスの街並みが現れた。両側に並ぶ商店やレストランを過ぎると、十字路に出た。左に曲がるとすぐに、先ほど出会ったU夫妻の定宿があった。ここのビールが美味しいと言うU夫妻の勧めで、中のパブを覗く。宿の主人がいたので、覚え立てのウェールズ語で「ボレダー(コンニチハ! )」と挨拶をする。私の顔を見て、主人は「U夫妻に会ったか?」と聞く。どうやら夫妻から、私のことを聞いていたらしい。ほろ酔い気分でホテルを出ると、観光案内所に向かう。その奥にウェールズ独立時代の議会跡があると、U夫妻から聞いていた。イングランドの支配に激しく抵抗した独立の志士「オーエン・グランヂャー」が、ここを拠点にしたらしい。今はイングランドに統合されたウェールズにも、かつてイングランドと戦った血みどろの歴史があったのだ。イギリスの皇太子を「プリンス・オブ・ウェールズ」と呼ぶのは、ウェールズを大英帝国と一体化した証拠である。
街の一角には、「ケルティック・センター」がある。ここにはヨーロッパ大陸を出発点に、ブリテン島、アイルランドにまで民族的な遍歴を印したケルト民族の数々の貴重な展示が見られる。特に興味を感じたのは、各地のケルト語で数詞を1から10まで発音したテープである。たとえばウェールズ語とフランスのブルターニュ地方の「ブルトン語」が、実に良く似ていたことだ。今日ヨーロッパでは、「ケルト・サミット」が定期的に開かれているという。 さて再び駅に戻って、ホームに立つ。今日はこれから西に向かい、ドヴェイ・ジャンクションで左に折れ、保養地で名高い「アベリストウイス」に向かう。右に折れて北上すると、カーディガン湾に沿って走る列車はほどなく開けて入江かかる。ここには1867年建造の「バーマス・ブリッジ」がある。広い入江に架かるイギリスの鉄道橋には、それぞれに個性がある。水面スレスレに掛かるバーマス橋は木造橋だが、北端に2つの鉄製のアーチがあり船の出入りが出来る。
左に折れて、終点の保養地で名高いアベリストウィスに着く。かくしてマハンスレス駅を起点に、興味の尽きない旅が始まる。
「終点のアベリストウィスを山上から見下ろすと、アイリッシュ海に面した市街が眼前に開けました。中央の海岸に面したホテルに、1週間滞在しました
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アヴィモア (文責)角田昌夫
引き続きスコットランドの駅を紹介しよう。スコットランド中央部のパースから、北部の中心地インヴァネスを目指す。列車がスコットランド中央高地に差し掛かると、スピードはガックリと落ちる。この路線には峠が二つあり、強力なエンジン付きの気動車でも越すのがひと仕事である。峠の頂上部は樹木が消え、低い地衣類が生える風景はツンドラ地帯を思わせる。喘ぎあえぎ峠を登りつめた列車が、下りにさし掛かると次第にスピードを増す。パースを出発して1時間半、列車は「アヴィモア駅」に着いた。開けた地形の右手には、5月なのに雪を戴いた山波が見える。
「本シリーズその1」で紹介したグレンフィナンの入江に立つ「チャーリー王子」の像です。塔の頂上は狭いので、高所恐怖症の方はご注意を!
の財政援助を受けているようだ。
お昼を迎えたので、とりあえず昼食を摂ることにした。駅舎の中には期待したレストランが無く、サンドイッチのスタンドがあるだけだった。とりあえずサンドイッチを注文して、傍のベンチで食べる。ゆっくりランチをと思っていたが、なんだか慌ただしく味気ない昼食であった。
さてアヴィモアには、「ストラス・スペイ保存鉄道」があるはずだ。駅前広場に出ると、保存鉄道の標示があった。通りに沿って歩くが、それらしい物が見当たらない。どうやら行き過ぎたようで、通りかかった中年女性のグループに聞く。「それなら、こっちよ」と、もと来た方向に案内されると保存鉄道の入り口があった。本線の下をガードで潜ると、ストラス・スペイ保存鉄道の入り口に出た。
この線は本来ここからスペイ川に沿って、アバディーン方面と連絡していた。それが鉄道合理化の名の下に、赤字路線とした廃止されてしまった。廃止に際して有志が集まり、路線の一部を入手して保存鉄道とした。イギリス各地には、同様な保存鉄道が多く見られる。いずれも赤字路線廃止に際して、有志が購入して運行しているものだ。代表的なものに、セヴァーン・ヴァレー鉄道、グレート・セントラル鉄道、イースト・ランカシャー鉄道等々、枚挙に暇が無い。
現在のストラス・スペイ鉄道は、ここアヴィモアから「ボート・オブ・ガーテン」までスペイ川に沿って8kmを20分余で走る。専用の保存機関車や客車を持ち、数人の常勤職員と多くのボランティアで運営されている。もちろん正式な資格を持った運転士や信号係りが、公式の運行規定にそって列車を走らせている。運営資金の大半は賛助会員の会費や寄付金で賄われ、私もその場で幾ばくの寄付を行った。
ホームはもっか工事中で、将来的には本線と繋げるらしい。そのホームには、大勢の人が待っていた。家族連れが多いのを見ると、必ずしも鉄道オタクだけではないようだ。構内では車両の入れ替え中で、時代物の蒸気機関車が忙しく動いている。煙突が長いSLは、車体が青く塗られている。これぞ旧私鉄カレドニアン鉄道時代の生き残り機関車である。車体の青は、鉄道フアンの間で「キャレイ(カレドニアンの略)ブルー」と呼ばれている。私が「キャレイ・ブルーだ!」と言うと、傍にいた中年オタクが「そうだよ」と嬉しそうに相槌をうった。ホームに入線してきた列車の機関車を覗くと、車体の下にシリンダーが見えない。これは、シリンダーを内側に内蔵した「インサイド・シリンダー形式」である。日本の蒸気機関車に珍しい形式に、思わず「インサイド・シリンダーだ!」と叫ぶと、先刻の鉄道オタク氏はわが意を得たりとばかり「そうだよ!」と応じてくれた。
入線した列車は、ここから終点の「ボート・オブ・ガーテン」まで8kmを走る。客車はいずれも、マーク1型の保存車両である。いちおう最前部から最後部まで、7、8両の車両を見てまわる。最後部の車両に座を占めると、汽笛一声で列車が発車した。列車は時速2〜30kmくらいの速度で、ゆっくり走る。右手から現れたスペイ川の下流には、ウイスキーの醸造場が点在する。列車は川に沿って走ること20分余で、終点のボート・オブ・ガーテンに着いた。かつて線路は更に延び、ここからアバディーン方面に接続していたのだ。
イギリスの鉄道史をひも解くと、「ビーチング・レポート(報告)」なる言葉が目に付く。これは1963年に赤字に悩むイギリス国鉄当局が、当時シエル石油の社長「ロバート・ビ−チング博士」に廃止対象の路線調査を依頼した。このレポートに基づいて、多くの赤字路線が廃止の憂き目に遭った。今日のイギリスでもビーチングの名前は、「鉄道の敵」として恨みの対象になっている。
イギリス各地に残る「保存鉄道」は、いずれもビーチングの廃止決定になった路線を、ボランティア団体が購入・保存しているものである。
終点の「ボート・オブ・ガーテン」に着いた列車は、30分ほど停車した後に折り返す。この間に、ホーム周辺を散策して時間を過ごす。たまたまホームに制服姿の職員を見つけ、保存鉄道の運営について訊いてみた。常勤のスタッフは3名で、後は非常勤のボランティアで運行されていると言う。運営資金は、数百名の賛助会員の会費と乗客の運賃で賄われているそうだ。
列車は再び走ること20分で、出発駅のアヴィモアに到着した。
同じく「本シリーズその3」で紹介した最果ての終着駅「カイル・オブ・ロカルシュ」
です。以前は背景のスカイ島へフェリーの便がありましたが、この右奥に「スカイ大橋」が完成したので廃止されました。フェリーでスカイ島に渡る私の夢は、惜しくも実現を見ず終わりました。
このたびは、写真の挿入技術を覚えました。前の路線にさかのぼって写真を紹介しました。
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「ヨーロッパこだわりの駅;その3」 2003.2.24
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カイル・オブ・ロカルシュ (文責)角田昌夫 引き続き、スコットランドの駅を紹介しよう。前回紹介したパースからスコットランド中央高地を横断すると、北部スコットランドの中心地「インヴァネス」に着く。ここから更に北に向かって、二本の路線が延びる。一本は真っ直ぐに北上し、最北端の「サーソ」と「ウィック」に行く。もう一本の路線は途中のディングウォールから西に折れ、今回の「カイル・オブ・ロカルシュ」に着く。これら二本の路線は、「Far North Line(最北線)」と呼ばれている。ここに図式化できないので、読者の皆さんにはスコットランドの地図を開いて頂けると有り難い。 ケルト系住民が住むスコットランドでは、近年かれら固有の言語である「ゲール語」の復活が進められている。スコットランド内の駅には、英語と併記してゲール語の駅名が表示されている。「LOCHALSH(ロカルシュ)」の「CHA」は、ゲール読みで「ハ」と強い発音らしい。これは英語系の住民に難しい発音らしく、しばしば「カ」とも発音されているようだ。従って「ロハルシュ」とも表記されるが、ここでは「ロカルシュ」をとった。 朝10時47分にインヴァネスを出た列車は、丘を越え谷を渡り走ること2時間余で終点「カイル」に近づく。右手に長い入江が現れると、列車はしばし岸辺を走る。小波一つ立たない水面は、湖ならぬ氷河で形成されたフィヨルド(峡湾)である。この辺りは硬い岩盤が連なり、開通までに長い年月を要したそうだ。13時15分、列車はスピードを落とすと、カイル・オブ・ロカルシュのホームに到着した。駅舎とホームの背後には狭い海峡があり、その対岸にはスカイ島を配したお馴染みの風景が現れた。見渡すと、ホームの端にあるはずのフェリー乗り場がない。実はここから対岸のスカイ島に、フェリーで渡るのが私の夢であった。聞けばこの上手に「スカイ橋」が完成し、フェリーは廃止になったとか。残念なことに、永年の夢は実現しなかった。 構内の配線は、ホーム片面の一線のみ。到着した列車は、そのまま折り返すシンプルな配線である。隣りでは、貨物線らしき線路を敷設中であった。 さて帰りの列車まで、4時間ほど時間がある。駅舎を出て陸橋で線路を渡ると、観光案内所があった。その向かいには、スカイ島へ渡るバス停留所がある。時間表を見ると、バスは先刻出たばかりのようだ。次のバスまで時間があるので、歩いてスカイ橋を渡ろうと思ったがかなりの距離らしい。たまたま海峡に面した岸辺に、素敵なホテルを見つけた。ここで急遽スカイ島訪問を止め、ホテルでゆっくり休むことにした。このように予定を柔軟に変更出来るのが、個人旅行の強みである。ホテルの玄関で来意を告げると、丁重に奥のラウンジへ案内される。海峡を目の前にした席に着き、アフタヌーン・ティをオーダーする。例によってポットいっぱいの紅茶を、なみなみとカップに注ぐ。目の前に陽光にきらめく海峡と、逆光に黒いシルエットを描くスカイ島の対比が美しい。先ほど列車から降りた観光客は、どこに消えたのだろうか。当ホテルには、その姿がない。お茶の時間も終わり、やや時間を持て余す。駅に戻り石造りの駅舎に入ると、片隅に鉄道模型店があった。これは、鉄道フアンとして見逃せない。陳列棚には、イギリス鉄道の名車両が数々並んでいる。中には、小生の好きな車両もある。店の主人も退職した鉄道屋らしく、私の質問に気軽に応じてくれる。私の好みの40型ディーゼル機関車を見つけて、ひとくさり薀蓄を傾けてしまった。時ならぬ異国のフアンの出現に、主人は「おや、良く知っているね」と喜んでくれた。 帰りの時間が来ると、乗客が三々五々と現れる。ホームに入線してきたディーゼルカーに乗り、私の御用達である最後尾の窓際に席を占める。エンジンもひときわ高く、列車はホームを離れた。去り行く車窓には、海峡を隔てたスカイ島が浮かび上がってきた。スカイ島を背景に抱いたカイル・オブ・ロカルシュ駅は、今でも私の脳裏には鮮やかに焼きついている。 |
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「ヨーロッパこだわりの駅;その2」 マックス社のお話しによると、今年は「ハリー・ポッター」の影響でスコットランドがブームになりそうとか。そこで本シリーズも、スコットランドの「こだわり駅」を幾つか紹介してみたい。 その前に、先週は厳冬下の北海道を鉄道で旅してみた。旅のメインに、留萌から海岸に沿って増毛を目指した。たった一両のワンマンカーは、雪と氷に埋もれた寒村を走る。ホーム一面を残す増毛駅は、辛うじて廃線を免れた姿を見せている。人影のないホームに立つと、ふとスコットランド最果ての駅を思い出す。場所は違えど、風景に変わりはない。まだまだ日本の旅にも、新しい発見があるものだ。 閑話休題、スコットランドに戻ろう。パースと言えば、皆さんはオーストラリア西部の都市を頭に浮かべるに違いない。しかしパースの本家は、スコットランドの中央部にある。アメリカのボストンも、本家ボストンはイギリス東部にある。イギリスを旅していると、しばしばこの種の例に出会う。かつてスコットランドの首都であったパースは、わが国の京都にも喩えられる歴史の都である。文豪サー・ウォルター・スコットは、「パースの麗しき乙女」でパースを有名にした。今日でも彼の作品に因んで、パースは「麗しき都(Fair city)」と呼ばれている。ここパースは、スコットランドの東西南北から鉄道が集まる十字路でもある。何度か通過しながら降りたことがないパースであったが、先年敬意を表して降りてみることにした。 11時17分にアバディーンを出発した列車は、北海沿いに一路南下する。ダンディーを過ぎると、左にエディンバラ方面の本線が別れる。テイ湾に架かる長大な「テイ橋」が、左手の車窓に広がる。列車はテイ湾からテイ川に沿って、上流を目指して走る。両岸を緑に囲まれた川を溯ると、やがて斜めに鉄道橋をわたる。テイ川が左岸から右岸に変わったところで、13時7分パースに到着した。エディンバラ・グラスゴー・インバネス・アバディーン方面の四方向から路線が集まるパース駅は、巨大なドームに覆われている。4方面に分かれたホームは、イギリスの駅に良く見られる屋根の下で跨線橋がホームを結んでいる。 1847年に建造された駅には、ヴィクトリア女王がバルモラル宮殿への行幸の際によく立ち寄ったらしい。駅舎内には、女王が朝食を摂った貴賓室がある。複雑な回廊を案内表示に従って歩くと、正面玄関にでた。正面から眺めた駅舎は、ヴィクトリア時代の堂々とした石造り建築である。地図を片手に駅前の通りを歩き、街の中心に向かう。目抜き通りを過ぎると、澄んだ流れに差し掛かった。これぞパースを貫流するテイ川の流れだ。この辺りは中流に属するのだろうが、かなりの川幅である。対岸から眺めると、教会の尖塔を映した川面が美しい。再び目抜き通りを歩き、駅に戻る。 最前駅舎を出た時に、駅前に立派なホテルがあるのを見た。これまた、ヴィクトリアン建築の壮大な建物である。ロビーに入ると、受付のスタッフに「お茶が飲みたいのですが」と申し出る。彼は典型的なイギリス風の物腰で、「どうぞお入り下さい」と奥へ案内してくれる。部厚い絨毯と家具に囲まれたラウンジに入り、ソファーに座る。間もなくティーセットが運ばれてきて、紅茶が出された。折りしもアフタヌーン・ティーの時間で、スコーンを初め各種のケーキも出された。まともに食べると、一食分に当たる量になる。紅茶のポットも大きく、優にカップ5,6杯はとれる。日本では、余りお目にかかれない豊かさである。30分ほど寛いだ後、再び駅に戻る。駅舎に入り、四方面のホームをチェックする。巨大なドームの下で、方向表示に従ってホームを歩く。表示さえチェックすれば、行く先を誤ることはない。 そろそろ帰路に着く時間になり、「インヴァネス」方面のホームで列車を待つ。今回は一等車を利用するので、ホームの先頭部分に立つ。定刻になるとエンジン音を響かせ、お馴染みの「スーパー・スプリンター型」ディーゼルカーが入線してきた。14時55分、ディーゼル音もひときわ高く、列車はパースを離れた。上流で再びテイ川の清き流れを渡ると、列車はインヴァネス目指して一路北上した。 |
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スコットランド北西 話題の映画ハリー・ポッター最新作「秘密の部屋」の予告編を見ていたら、懐かしい場所に出くわした。主人公が乗る車が、鉄道橋の上で蒸気機関車に追いかけられるシーンである。この鉄道橋こそ、スコットランド北西部にある「グレンフィナン橋梁」である。ここで敢えて「鉄橋」と呼ばないのは、この橋が世界最初の「コンクリート橋」だからである。 スコットランド北西部の中心地「フォート・ウィリアム」から、北西端の「マレイグ」に列車で向かう。しばらく湖畔を走った列車が、内陸の山越えに掛かる。乗ること1時間で突然視野が開けると、列車は開けたグレンフィナンの谷に出た。左にカーブした長大な橋梁が、一気に谷を越える。列車は、橋の中央でしばし停車する。今までオシャベリしていた観光客も、一斉に左側の窓により谷を見下ろす。はるか彼方には、谷に入り込んだ入江が見える。 全長400メートルの橋は12の橋脚を有し、今を去ること100年前に建造された世界最初のコンクリート橋だ。再び発車した列車は谷を渡りきると、「グレンフィナン駅」に着いた。2面の島型ホームの下り側には、ヴィクトリア時代の建築様式を残した駅舎がある。無人駅であるが中を覗くと、この沿線の博物館になっていた。開設以来の歴史を物語る資料や記念品が、展示されている。 ホームから降りる道をたどって、入江に向かう。日曜日の朝とあってか、人の気配がない。道の真ん中に、黒い犬がいる。犬嫌いな私は恐る恐る近付くと、「イージー、イージー」と英語で声をかけてみる。幸いおとなしい犬とみえて、尾を振って近付いてきた。木立からチラチラ見える入江を目指して、道をたどると岸辺に出た。この入江は「Loch Shiel」と呼ばれているが、LOCH(湖)ならぬ海につながる入江である。岸辺の中央には、頂上に銅像を戴く塔が立っている。今を去ること150年前、スコットランド独立の使命を抱いた「チャールズ王子」が、亡命地フランスから海路でこの岸辺に上陸した。スコットランド各地の独立派(ジャコバイト)の族長は、この岸辺に王子を出迎えた。後に王子は「カローデンの戦い」でイングランド軍に敗れ、スコットランド独立の夢が消え果た。高さ30メートル余りの塔に入り螺旋階段を登ると、チャールズ王子の像が立つ頂上に出た。身を乗り出すと落ちそうに狭い頂上から、入江と谷の展望が開けた。 近くに観光センターを見つけ、中に入ってみた。受付の女性職員に「付近の地図がありますか?」と聞くと、「探しておきます」と言う。館内の展示を見ていると、先ほどの職員が向こうで「あのジェントルマンが」と言っている。「ジェントルマン」とは俺のことかと、まんざら悪い気はしない。 再び駅に戻る途中で、小さいながらも素敵なホテルを見つけた。中に入って、「お茶が飲みたい」と言うと、品の良い女性がニコヤカに応対してくれた。お茶を飲みながら顔を上げると、壁になにやら文章が掲示されている。良く見れば、シエクスピアの文章ではないか。聞けば、女主人が好きな言葉だという。スコットランドの辺鄙な場所で見つけたシエクスピアの言葉に、心が洗われる気分でお茶を頂いた。 駅のホームに戻り、帰りの列車を待つ。ホームのベンチに座っていた老夫婦を見つけ、声を掛けてみた。イングランド東部のヤーマスから来たと言う。「私も行ったことがある」と言うと、とても喜んでくれた。暖かい陽射しとさわやかな風を受けて、しばし会話を楽しむ。私の英語も、この程度の会話なら何とかこなせた。 間もなく「マレイグ」方面から、ディーゼルカーがやってきた。列車は再び、グレンフィナンのコンクリート橋を渡る。遥か彼方の入江には、チャールズ王子の銅像を頂く塔がポツント見える。列車は橋の中央で再び観光ストップをした後、エンジンを再駆動するとグレンフィナンに別れを告げた。 |
翌年再びイギリスを訪れた私は、リンダに再会する機会を得た。フランス各地を30日かけて歩いた私は、ユーロスターでドーバートンネルを越えイギリス入りをした。ロンドンに一泊した後、スカボローを目指す。ロンドンの「上野駅」にあたる北の玄関「キングス・クロス」から、イギリスの新幹線「IC125」で一路北上する。昼前に乗り換えのため、ヨーク駅に降りる。何度も行き来したヨークは、勝手知ったる駅である。とりあえず、駅のカフェテリアで昼食を済ます。イギリスのサンドウィッチはボリュームが一杯で、1パックを食べると十分である。これに牛乳を加えるのが、私の「イギリス列車の旅」の定番昼食であった。ヨークを発車した2両編成のディーゼルカーは、北ヨークシャーの平原を驀進する。この路線は何度も行き来したので、もはや「おらが鉄道」の感さえする。
スカボローの駅に着き、再び懐かしい街並みを歩く。前回宿泊した「セント・ニコラス・ホテル」に着くと、そこにはリンダのメッセージが待っていた。5時に仕事が終わるので、学校に来て欲しいと書かれていた。午後のひと時をホテルで休息し、夕刻リンダの学校に向かう。受付には前回にお会いした校長先生が、応対してくれた。毎度のことながら、物腰が柔らかな紳士である。待つことしばし、懐かしのリンダが現れた。1年ぶりに再会した彼女は、出産を終えてスマートな容姿に変わっていた。
これから自宅の夕食に招待するというので、リンダの運転で家に向かう。両側に石垣が積まれた郊外の道を走ることしばし、閑静な住宅街の一角に着いた。玄関には、初対面のご主人「イアン」が立っていた。イアンはガッシリした体つきで、温厚な風貌をしている。イアンの腕に抱かれた女の子が、昨年はリンダのお腹にいた「ルシー」であった。さっそく部屋に通され、食卓に座る。リンダがルシーの世話をしている間、イアンが台所で料理をする。「イアンは、ずいぶん協力的だね」と言うと、「あたり前でしょう。私たちは共働きなのよ!」と言うリンダに、返す言葉もなかった。イアンの手料理「サーモン・ムニエル」を食べながら、二人と会話する。二人の英語は、さすがに英語の教師だけあって、極めて聞き取り易い。話題はもっぱら、日英の教育問題に終始した。食事を終えると、リンダが近くのパブに案内すると言う。イアンはルシーの世話で居残り、リンダと二人で夜道を歩く。寒風が吹く田舎の道を、大股に歩くリンダの後を必死に追う。考えてみれば、ロマンや色気のかけらもない。パブに入ったリンダは、私に大ジョッキのビールを注文してくれた。ビールが嫌いなリンダは、ジュースを注文して乾杯する。楽しい会話のひと時が終え、ホテルまでリンダの車で送ってもらう。
さて翌日はお返しに、リンダをホテルの近くの中国レストランへ招待した。イアンも一緒にと思ったが、ルシーの保育でリンダ独りになった。夜7時から2時間あまり、様々な話題で話し続けた。私たちの興味や関心は不思議にも一致し、リンダも「国も性別も年齢も違うマサオと、こんなに意見が合うのは不思議だわ!」と言う。食事の手も休めて語り続けた一夜が、やがて終わりを迎えた。外へ出ると、アルコールで火照った顔が夜気に心地好い。タクシーで帰るリンダを送り、満ち足りた気持ちでホテルへの帰途に着いた。
一日おいた日曜日、再びリンダの家に招待された。今日は昼食を挟んでゆっくり話そうと、10時にリンダがホテルに迎えにきた。再びイアンとルシーに迎えられ、テーブルに着く。今回は論議したいテーマを、あらかじめ前夜メモにしておいた。お茶を飲みながら、メモに従って私が議題を提案する。本日のテーマは、日英の国民性の違いから始めた。この間にリンダが昼食の準備に掛かったので、イアンと議論を続ける。陽気なリンダに比べると、物静かなイアンはジックリ考えて意見を述べる。日本に対する幅広い知識や見識に、少なからぬ敬意を感じた。まもなく昼食が運ばれ、リンダを含めた会話が再び続く。テーマはやがて、霊魂の存在にまで及んだ。「肉体の存在なくして魂はない」と言う私に対して、キリスト教の影響か「私は、存在すると思うワ!」とリンダは言う。会話は英語で終始進められたが、彼らの英語は極めて聞き取り易かった。
楽しいひと時にも、終わりが訪れた。リンダの運転でホテルへ送ってもらう。
いよいよ、お別れの時が来た。テレビの「ウルルン滞在記」のような感動的シーンを期待していたが、別れはアッサリしたものであった。ルシーを乗せていたリンダは、運転席に座ったまま後ろの私に手を差し出す。固い握手を交わした私は、車を降りてリンダを見送った。
翌朝、三たびスカボローに別れを告げる時を迎えた。早朝ホテルを出ると、トランクを引いて駅へ向かう。あの店、この通りと思い出が蘇ってくる。駅のホームには、お馴染みのスプリンター型ディーゼルカーが待っていた。定時に列車は、スカボロー駅を発車した。列車のスピードが増すと、スカボローの家並みが車窓を過ぎる。次の停車駅「シーマー」を発車すると、列車はリンダと初めて出会った場所に差し掛かった。懐かしい想い出や感傷を振り切るように、列車は北ヨークシャーの原野を驀進する。グッバイ・スカボロー!シーユウ・アゲイン、リンダ!
「後記」
その後リンダには、第二子の「サム」が生まれました。ルシーとサムの成長を待って、スカボロー訪問を考えている昨今です。
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このシリーズの最終回を、リンダとの出会いと友情に当てたい。彼女に出会ったのは、イングランド北東部の保養地「スカボロー」であった。早朝ロンドンのキングス・クロス駅を出て、エディンバラ方面の「東海岸本線(E.C.M.L.と略称する)」に乗り一路ヨークへ向かう。昼前にヨークへ着き、ここでスカボロー方面に乗り換る。とりあえずホームのカフェテリアで、コーヒーにサンドイッチと牛乳で昼食を済ます。やがてホームには、「トランス・ペナイン急行」が入線してきた。この列車は西海岸のリバプールを発し、マンチェスターを経由してランカシャー地方を走る。ペニン山脈を越えた列車はヨークシャー地方に入り、リーズを経由してヨークに着く。ここから列車は、さらに一路北ヨークシャーの原野を走り東海岸のスカボローに至る。まさに、大ブリテン島の中央部を横断する列車だ。私はこの線にたびたび利用したが、乗るたびに新たな魅力を発見する路線である。かくしてロンドンを朝出発して、昼過ぎにはスカボローに着くことが出来た。駅を降りるとカバンを引いて、ホテルへ向かう。商店街を歩く途中で、頭上の有線放送から名曲「スカボロ・フェアー」が流れる。 スカボローのホテルに腰を据えた私は、一週間かけて周辺を歩き廻ることにした。スカボローに到着した翌日は、早速ヨークの鉄道博物館を訪ねる。ホテルで朝食を済ませ、スカボロー駅に向かう。北海の海岸に面したホテルから、スカボローの中心街を歩く。早朝の市内は、人通りが慌ただしい。 かつては北海の観光地として壮大を誇ったスカボロー駅も、今や昔日の影がない。二面のホームには、リバプール行きの「トランス・ペナイン急行」が入線していた。 スカボローを発車して15分余で、次の停車駅「シーマー」へ着く。ここから左に分かれる支線は、ハンバー川に面した「ハル」へ行く。この路線はイギリスでもローカル色豊かで、私のお勧めの線である。列車がシーマーを発車した時のことだ。妙齢な女性が私に、「空いてますか?」と聞いてきた。私が「どうぞ」と言うと、彼女は横の席に座った。相手は、見ず知らずの異国の女性だ。気安く話し掛けるわけにもいかず、私はしばし読書にふけっていた。しばらくすると、隣りの女性が話し掛けてきた。しかも日本語で、「アナタハ、ニホンノカタデスカ?」と。余りの突然のことにしばし呆然とした私だが、我に帰って「そうですよ」となんとか答えることが出来た。彼女の名前は「リンダ・ポルコフスキー」と言い、父親がポーランド系移民とのことである。愛知県の三河市で2年間、英会話の教師をしていたそうだ。私を日本人と推定して、声を掛けてきたと言う。時間を忘れてリンダと話し込むうちに、列車はアットいう間にヨークへ着いてしまった。別れ際にリンダが勤めている英語学校の住所を聞き、翌々日に訪問することにした。 さて当日の昼過ぎに、リンダの学校を訪ねた。スカボローの駅前を過ぎ徒歩10分余で、住宅街の一角にあるリンダの学校に着く。奇麗に手入れされた庭から玄関に入り、受付で来意を告げる。応対した物腰柔らかな紳士は、この学校の校長であった。まもなく授業が終わると言うので、ロビーで待つ。待つことしばし、授業を終えたリンダが現れた。もともと大柄なうえに妊娠していたリンダは、いっそう大きく見える。大股にさっそうと入ってきたリンダは、ニッコリ笑って「マサオ、良く来たわね」と歓迎してくれる。二度目の出会いで早くも「マサオ!」と親しく呼びかけるリンダに、私も親しみを感じ「リンダ!」と素直に呼んでしまう。 昼時なので、リンダが近くのパブへ行こうと言う。この学校に通っている日本人学生も、リンダの誘いで同行する。男子学生1名と女子学生3名は、いずれも20代前半の若者であった。またリンダの同僚「デビーさん」も、一緒に来た。金髪に青い目をしたリンダと対照的に、デビーさんは茶色の髪と目をしていた。パブのテーブルを囲み、食事と会話を楽しむ。まだ昼間だが、リンダに勧められてビールを飲む。リンダにビールを勧めると、「あんな苦い物は嫌いよ」と、万事に自己主張がはっきりしている。職業柄だろうか、食事の場もリンダが取り仕切る。独りずつ質問して、全員から会話を引き出す手並みは鮮やかである。午後の授業が控えているリンダがひと足先に退席し、私たちは会話を日本語に切り替えた。 さて、スカボローに別れを告げる前の日をなった。もう一度リンダに会うため、夕刻に学校を訪れた。待つことしばし、授業を終えたリンダが現れた。リンダとの出会いから楽しい交流で、スカボローに良き思い出ができたこと手紙にまとめてリンダに渡した。 いよいよスカボローに、別れを告げる日が来た。 朝食後、ホテルをチェック・アウトして駅に向かう。僅か1週間の滞在だが、すっかり馴染みになったスカボローだ。あの店、あの通り、そして「リンダ」と去り難い気持ちを残し駅に着いた。ホームにはすでに、リバプール行きの「トランス・ペナイン急行」が入線していた。列車は定時に、スカボロー駅を発車した。思い出の街並みが、思い出とともに車窓を流れ去る。 思わず私は呟いていた、「グッバイ、スカボロー!シーユー・アゲイン、リンダ!」と。 「後記」翌年、再びスカボローを訪問して、リンダに再会した。その模様は、後編でお話いたします。 |
思い出の駅、思い出の人9; 旧ソ連
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このシリーズを続けてきて、旧ソ連(現ロシア)のスターリングラードで出会ったナターシャを思い出した。話しは今から20数年前にさかのぼるが、今日のロシアはまだ「ソビエト連邦(略称ソ連)」であった。社会主義時代のソ連に何度か旅したが、珍談奇談・ハプニングに事欠かなかった。これはこれで、一つの物語が出来るくらいだ。 かつてのスターリングラードも、今日では「ボルコグラード」に改名されている。中南部ロシアのボルガ河畔に位置するスターリングラードは、第二次世界大戦の激戦地であった。ナチス・ドイツ軍に怒涛のごとく攻め込まれたソ連は、ここスターリングラードで踏みとどまった。激戦8ヶ月余で攻勢に転じたソ連軍は、これ以降ベルリンにまで進撃した。スターリングラードは、第二次世界大戦の帰趨を決めた場所である。私たちは、この激戦地跡を訪れることにした。 当時のソ連では、個人旅行は出来なかった。旅行者は全て国営旅行社「インツーリスト」の管理下に置かれ、ソ連国内のどこへでも係員が付き添った。 私たちは、モスクワから空路でスターリングラード入りをした。夜遅く空港に着くと、そこにインツーリストの担当「ナターシャ」が待っていた。ロシアの女性に似合わずスマートな肢体に、理知的な顔が映える。真っ暗な空港ロビーに、大輪の花が咲いた感じだ。「私が、貴方たちの担当をするナターシャです」と、自己紹介をする英語も流暢である。出迎えのバンが走り出すと、ナターシャは助手席から振り向いて、今後の予定を説明してくれる。分かりやすい英語でテキパキと説明する様子から、彼女の能力の高さが分かった。説明の中に「私の夫が、」と言う言葉が出て、テッキリ独身かと思っていた予想が外れた。家にはわが子が、母の帰りを待っているという。「仕事だから、仕方がないわ」と、ナターシャはきっぱり言う。車はかつてのドイツ軍最前線を走っていると思うが、外は真っ暗で確かめようがない。ホテルへ着いた私たちは、遅い夕食を済ませ床に就いた。 翌朝は朝食前に、散歩がてらボルガ川の岸辺まで歩く。包囲戦の終盤には、押し寄せたドイツ軍が、ボルガ河畔に迫ったはずだ。母なるボルガは滔々と流れ、大小の船が行き交う。はるかな対岸は、霞んで良く見えない。私は例によって靴下を脱ぐと、足をボルガの流れに浸してみた。ややひんやりとした水が、心地よく身体を冷やしてくれる。 ホテルへ戻ると、ナターシャが「ドーブルイ・ウートロ(お早うございます!)」と笑顔で迎えてくれる。緑の縞模様のドレスが、スマートな身体に似合う。明るいところで見るナターシャは、さながらオペラのプリマドンナのようだ。朝食後に少し時間があったので、ナターシャとプライベートな会話を交わした。彼女のゲルマン的風貌から予想したとおり、父方がドイツ系ロシア人とのこと。そう言えば、黒海沿岸にはドイツ系移民が多数居住していたはずだ。当時のソ連では政治的な話題は禁句であったが、ずばり「貴方は共産党員ですか?」と聞いてみた。彼女は不躾な質問にも、快く応じてくれた。「私は共産党員ではないわ」と、キッパリ答える。大学で英文学を専攻したが相応しい職業に就けず、インツーリストで英語を生かしているとのこと。何かの事情で党員になれないのか、なる気がないのか。これ以上の質問は、差し控えることにした。 午前の予定は、激戦地「ママイアの丘」に戦没者慰霊館を訪れることであった。丘には、高さ52メートルの巨大な女神像が立っている。その麓には、大理石造りの慰霊館があった。館内には荘厳な曲が流れ、中央には慰霊の炎が燃えていた。私たちは入り口で購入したグラジオラスの花束を、慰霊碑に捧げた。この戦いで、独ソ両軍の数多くの兵士が倒れた。ホテルへ戻る途中で、ソ連軍の最前線にあった「製粉所跡」を見た。弾痕の跡も生々しい製粉所は、当時の激戦を物語る遺跡として保存されている。その向かいには、パブロフ軍曹の率いる数名の兵士が、58日間守りとうしたという「家」が残されていた。スターリングラード戦の特長は、激しい市街戦が戦われたことである。独ソ両軍は、一つの通りから一つの建物、更には一つの部屋を取り合う激戦を展開したという。 再びホテルへ戻って昼食を済ますと、いよいよスターリングラードに別れを告げる時がきた。ナターシャの案内でライトバンに乗り、駅へ向かう。帰りは空路ではなく、1泊2日の寝台列車の旅を選んだのだ。巨大な駅舎の前で降りると、駅前広場で青空市場が開かれていた。時間があったので、ナターシャの案内で市場をぶらつく。同行者が、果物を買いたいと言う。果物屋には、リンゴが山積みにされている。見てくれは悪いが、味は良さそうだ。ナターシャが交渉してくれ、袋にいっぱいのリンゴを仕入れた。 ホームに出ると、緑色に塗られた寝台列車が入線していた。ロシアの軌道は、新幹線の標準軌1452ミリより更に広い。プラットホームがないので、大型ダンプのように巨大な車両によじ登る。送ってきてくれたナターシャとは、窓越しに別れを告げた。二人用の車室であるが、昼間は6人が悠に座れる広さである。廊下の隅にはロシア名物のサモワール(湯沸し)が置かれ、いつでも紅茶が飲めるようになっていた。たまたま出会ったロシアの大学教授が、紅茶の飲み方を伝授してくれる。初めにお茶を飲み、その後に角砂糖をかじるのが正しい飲み方だと言う。昔は熱いお茶をカップに移し、冷まして飲んだとも言う。 列車は広大なロシアの平原を、ひたすら走る。真夏の平原には雲ひとつなく、気温は40度を超しているようだ。地形に起伏の変化がなく、単調な風景に飽きた私たちは車内で歌を歌ったり、トランプに興じて過ごした。レストランで夕食を済ますと、早々とベッドに入る他にすることもない。 一夜明けた列車は、緑豊かな原野を走っている。街並みが次第に増えると、モスクワ郊外に差し掛かったようだ。かくして昼前に列車は、モスクワに到着した。 「後記」;社会主義下の厳しい状況の中で、仕事からはみ出し私的な話題にまで付き合ってくれた「ナターシャ」。ソビエト崩壊後の今、相変わらず元気で添乗員を続けているのだろうか。それとも新しい体制の下で、自分で新しい分野を開いているのだろうか。 |
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想い出の駅、想い出の人8;チェコ ヤロスラフさんは、チェコ国鉄の車掌である。昨年のチェコ訪問の際に、チェコ南部の中心地「ブルノ」でヤロスラフさんに出会った。早朝チェコの首都プラハを出発し、ブダペスト行きの国際列車でブルノを目指す。列車はプラハ盆地を抜けると、緑の平原を一路南下する。 昼前にブルノに着き、駅舎内のレストランで昼食をとる。ここのメニューにもパスタがあり、ホットする。エタイの知れないチェコ料理を食べるより、パスタで済ます方が無難だ。食事を終えて、駅周辺を散歩する。近くには遺伝の法則を発見したメンデルが、えんどう豆の実験をした僧院があると言う。今の私には興味が無いので、広場の青空市を覗いて駅に戻る。さすがにチェコ南部の中心地だけに、駅構内は大混雑している。そろそろ帰ろうかと、改札口上の時刻表を見上げていた時だった。 「貴方は、これからどちらへ行くのですか?」と、日本語で話しかけられた。見ればチェコ国鉄の制服を着た人が、私に話しかけているではないか。突然の出来事にしばし呆然としたが、「これからプラハへ戻ります」と日本語で答えた。立ち話であったが、ブルノ駅の改札口で日本語の会話が始まった。彼は社会主義の時代から、月一回の日本語教室に通っていたと言う。外人特有の変なアクセントがない日本語に感心したが、日本人に教わったことがないと聞いて更に驚いた。 彼の名前は「Jaroslav Haflant」と言い、ブルノの近くに住んでいるそうだ。次の乗務まで1時間ほどあるというので、立ち話を続ける。回りをチェコ人に囲まれ、私たちだけ日本語で話すのも変な気分だ。私たちの会話を耳にはさんだ人が、時折り怪訝そうな顔をして過ぎる。彼は平仮名や漢字もかなり読めて、私が差し出した山手線の路線図を手にすると、「上野、池袋、新宿、渋谷」とすらすら読んでしまった。 私が地理の教師をしていたことを知ったヤロスラフさんは、「地理学、物理学、心理学と、学問には『理』が付きますね。『理』を訓読みにすると、何と読みますか?」と聞く。これには日本人の私でも、いささか当惑した。「多分『ことわり』だと思いますが」と、なんとか逃げをうつことが出来た。また、「日本には、1都1道2府43県がありますね。その次は『市町村』ですか?」とも聞く。その博学ぶりには、いささか度肝を抜かれた。 そろそろ、プラハ行き列車の時刻が迫ってきた。ヤロスラフさんが、ホームまで送ると言う。目指す3番ホームへ行くが、列車が来ない。ヤロスラフさんがホームの標示を見て、「ホームが変更されている」と言う。隣りのホームには、すでにプラハ行き列車が入線していた。突然のホーム変更も、ヤロスラフさんの助けで事なきを得た。短かったが密度の濃い会話も終わりを迎え、別れの時が来た。固い握手を終えて列車に乗ると、手を振って送ってくれるヤロスラフさんの姿が車窓から遠ざかって行った。あの時、あの場所に私が立たず、ヤロスラフさんが来なかったら、私たちの出会いはなかったはずだ。何十万分の一、何百万分の一の確率で私たちは出会った。一期一会の出会いだが、一会ならぬ何十会でも続けて行きたい。 「後記」;その後も、ヤロスラフさんとの文通は続いています。お互いに日本語なので、チェコ語が解からない私にとっては好都合です。ヤロスラフさんにも、日本語の練習になるのでしょう。文中に「弱肉強食」や「過労死」など、難解な言葉が現れます。これも、ヤロスラフさんが、日々研鑽に励んでいる日本語の成果でしょうか。 ジェクウィ(ありがとう)、ヤロスラフさん!
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想い出の駅、想い出の人7;
イギリス
リオは南ウェールズの中心地「カーディフ」で、タクシー運転手をしている。私の友人がカーディフ訪問の折りに、たまたまリオの車に乗りすっかり意気投合した。その友人の紹介で、イギリス訪問の際にリオに会うことになった。 イギリスにありながらケルト系の人々が住むウェールズは、独自の文化や風俗習慣を保っている。近年ウェールズ語は公用語とされ、日常的に話されている。 イングランド中部のマンチェスターから列車で一路南下した私は、昼過ぎ「カーディフ中央駅」に着いた。おりからのラグビー世界選手権大会に備えて、駅前に巨大なスタジアムを建設中である。駅構内も改装中で、正面入り口の中には開設準備中の事務所やショップが並ぶ。とりあえず駅前に停車しているタクシーを見つけ、運転手にリオの居場所を聞く。リオの本名は、「ライオネル・シートン」と言うが、みんなから「リオ」と呼ばれる人気者らしい。客待ち中の運転手が、さっそくタクシー無線でリオを呼び出してくれた。今は勤務中とのことで、とりあえずホテルで落ち合うことになった。 予約したホテルは駅から徒歩で15分とのことで、トランクを引いてブラブラ歩く。万事が早めに目的地に着くと、余裕をもってホテル探しが出来る。カーディフ駅から南へ、倉庫群や住宅地を抜けて歩く。目指すホテルは、由緒ある建物に近代的な新館を継ぎ足したホテルであった。 ホテルで一休みしていると、下のフロントからリオの来訪を告げてきた。フロントで待っていたリオは、予想したとおりのウェールズ人であった。レスラーと見間違う巨体に、陽気な性格がマッチする。初対面の挨拶から、お互いの自己紹介をする。リオの英語は極めて分かりやすく、幸いほとんど聞き取れた。 リオが車で市内を案内するというので、外へ出る。そこへ停まっていた車は、ご自慢のフォードであった。最近購入した新車のボディーには、タクシーの会社名がデカデカと書かれている。車体番号は、「777」のラッキーナンバーであった。初めに車は、カーディフ港を目指して南下する。広々とした港湾地域には、クレーンや倉庫群が立ち並ぶ。モダンな建物は、最近完成した博物館である。次に車はカーディフ湾を西に向かい、バリー島(Barry)に着いた。カーディフ郊外の歓楽地として、島内にはホテルやレストラン、カジノなどが立ち並ぶ。カーディフ中央駅からここまでは、支線が延びている。駅舎と周辺は、昔の姿に復元中であった。この頃から天候が崩れ、小雨が降り出した。ライトが点滅する黄昏のカーディフ市内へ戻り、ホテルまでリオに送ってもらった。 再会を約した翌日は、なぜかリオから連絡がない。変だと思ったが、一日待って電話してみた。電話に出たリオは、私を送った後で事故にあったと言う。イギリスには、四つ角とは違った「ランドアバウト」と呼ぶ円形交差点が多い。信号のないランドアバウトで、リオの車は左横から衝突されたと言う。本人は軽いムチ打ち症ですんだが、新車は大破したそうだ。事故の状況を聞いて、ビックリした。もし私が乗っていたら左側の助手席だったから、まともに当てられ重症以上は間違えなかったろう。わずか30分の差で、事故を免れたわけだ。とりあえずホテルのフロントに依頼して、見舞いの花束をリオ宅に送った。 さて翌日のことである。早めにホテルに戻って夕食を済ませると、フロントから来客の連絡があった。「もしや」と思って降りて行くと、なんとリオが立っているではないか。「リオ、大丈夫かい?」と聞くと、「俺はダイハード(不死身)だ」とポーズをとる。隣りでニッコリ笑っているのは、お嬢さんの「ジャマさん」だった。ジャマは父親に似ず、ホッソリとした美少女だ。「これから我が家へ来てくれ」と言うので、リオの車に乗る。市内を抜けた車は、郊外の住宅地に着いた。斜面に建てられたリオの家は、典型的な一戸建て住宅だった。奥さんの「パトリシア」が、玄関で迎えてくれた。パトリシアもリオと対称的に、ホッソリとした黒髪の美人であった。居間に通されて、白ワインで乾杯する。娘のジャマが、取り組んでいる高校の課題を見せてくれる。自分で自動車会社を設立したというテーマで、営業方針からコマーシャルまで作成したパソコン原稿を見せてくれた。傍でリオが、「俺にはサッパリ分からない」と言う。夫人のパトリシアは地元の新聞社に勤めていると言う。彼女が校正したと言う新聞は、地元の情報を満載した地方紙であった。息子の「ダミアン」は、もっかロンドンに住んでいると言う。ロンドン警視庁に勤務しているダミアンは、王室警護の優秀な警察官だとリオは誇らしそうに言う。楽しい団欒の時がアットいう間に終わり、リオの車でホテルに戻る。 いよいよカーディフに、別れを告げる日が来た。昼食を済ませ、カーディフ中央駅に向かう。到着した日には見慣れなかった道も、幾度か往復するうちに馴染みのコースになった。カーディフの想い出を胸に、カバンを引いて駅に向かう。駅前広場には、リオが待っていてくれた。固い握手から抱擁へと変わり、お互いの友情を確かめつつリオとカーディフに別れを告げた。ロンドン行きのインターシティ(都市間特急)は、次第にスピードを上げると思い出多いカーディフを後にした。 「後記」;リオとの友情は、クリスマスカードの交換程度であるが、今なお続いている。
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想い出の駅、想い出の人4;フランス
ムッシュー・アンドレ(アンドレ氏)には、フランス・アルプス山麓の街「ブリアンソン」で出会った。アンドレ氏は、私が1週間滞在したホテル「ヴォーバン」の支配人であった。ブリアンソンは、ローヌ川の支流「デュランス川」を登り詰めた場所にある。ディーゼル機関車が牽引する客車列車は、ローヌの谷からデュランスの谷へ入ると、川に沿って延々と登る。氷河から流れ出た白濁の激流を幾度か渡り、両岸に張り出した峨々たる尾根をトンネルで幾度かくぐる。やがて前方が開けると列車は盆地に入り、ホーム二面の閑散とした終着駅のブリアンソンに着いた。背後に急峻な岩峰群を戴いた駅舎が、白く浮かびあがって見える。 駅からカバンを引いてたどり着いたホテルは、憧れのデュランス川に面していた。部屋に通され旅装を解いた後、早めの夕食に階下のレストランへ行く。そこへ中年で中肉中背の支配人が、挨拶にきた。先ほどのチェックインでは見かけなかったので、この時がアンドレ氏との初対面であった。幸いにも彼は英語を話したので、意思疎通には困らなかった。アンドレ氏はお勧めの特製カクテルがあると言い、テーブルまで持ってきてくれた。絶妙な味に名前を聞くと、「カクテル・アンドレだよ」と言う。製法は秘密だと、教えてもらえなかった。 さて翌日から一週間、周辺の山歩きをすることにした。ところが困ったことに、今はシーズンオフでバスもケーブルも運休だと言う。予定していた一週間をどう過ごしたらよいか、しばし呆然としてしまった。そこへアンドレ氏が助け舟を出してくれ、車で山の上まで連れて行ってくれると言う。渡りに舟とばかりアンドレの言葉に甘えて、翌日からの山歩きに車をお願いした。 さて翌日の朝食後、ロビーで待っていると、アンドレがホテルの玄関前に車を乗り付けた。車は極めてオンボロのルノーだが、この際不満の余地はない。 直ちに出発した車は、市内を抜け背後の丘を登る。窓の下に駅構内を眺めつつ、ぐんぐん高度を上げる。眼下にはまるで鳥瞰図のように、ブリアンソンの全景が広がってきた。車は眠るように静まっている集落を過ぎると、峠の上の砦に着いた。イタリアとの国境にあるブリアンソンには、古くから山稜に幾つかの砦が築かれていた。人独りいない砦を見学した後、山道をたどり下山につく。眼下に見えるデュランスの流れを目指し、逆落としに山道を下る。降り終わった場所に架かったルイ14世建設の橋を渡ると、ホテルへの帰途についた。アンドレが言ったように、ちょうどお昼前にホテルへ戻れた。 かくして引き続き2日間は、アンドレに車で周囲の山稜へ連れて行って貰った。シーズン・オフにも拘らずフランス・アルプスの山旅を楽しめたのは、ひとえにアンドレのお陰であった。 アンドレは日本文学に強い興味を抱き、有名作家の作品を翻訳で読んでいた。井上靖、遠藤周作、川端康成の作品がお気に入りのようだった。「雪国」の舞台は、私の故郷「群馬」の隣りですよと言うと、親近感を憶えてくれた。 このホテルには、以前日本人の文学者が泊まったことがあると言う。アンドレは、彼から送られた文庫本を見せてくれた。内容はプロバンス地方の文学を、日本語に訳したものだった。ローヌ川下流一帯には、かつて「プロバンス語」なる言語が広く話されていたらしい。 ところで日本を離れて1ヶ月、そろそろ頭髪も伸びてきた。そこでアンドレに紹介してもらい、近くの理髪店に出かけることにした。異国での理髪にはいささか緊張したが、可憐な女性が上手にカットしてくれた。お礼かたがた名前を聞くと、「サンドリーヌよ!」と答えてくれた。日本人の客は珍しいのか、終わった後店員さんに囲まれてしばし話した。最終日にはアンドレの友人「リシャール」のタクシーで、イタリアの国境「モン・ジュネーブル峠」を訪ねた。峠を越えたイタリア側の村でコーヒーを飲み、イタリア滞在1時間でフランス側に戻った。 1週間の滞在を終え、ブリアンソンに別れを告げる時がきた。フロントで挨拶すると、アンドレを初め居合わせた職員が総出で見送ってくれた。アンドレの母親も言葉は通じなかったが、抱き合った体を通じて別れを惜しむ気持ちが伝わってきた。白雪のアルプス、緑の草原、白濁のデュランス川に送られ、私はブリアンソンに別れを告げた。今でも美しいアルプスの自然と、温かい人々の心が私の胸に蘇えってくる。Merci
Beaucoup, Andre ! 「後記」;お別れに際して、ホテルの商売繁盛を願い、アンドレに「招き猫」を送る約束をした。帰国後さっそく、アンドレに大きめの招き猫を送った。後日にアンドレから送られてきた写真によると、「招き猫」はホテル「ヴォーバン」のフロントに鎮座ましましている。アンドレとの文通は、今も続いている。
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想い出の駅、想い出の人3;ノルウェー
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マリット嬢は、ノルウェー北部の「ナルヴィク」で出会った観光ガイドである。ナルヴィクは北極圏内に位置しているが、メキシコ湾流の影響で冬でも凍らない港である。スカンジナヴィア山脈のスェーデン側で採掘されたキルナの鉄鉱石を運び出すために、莫大は資本を投じて開港されたのがナルヴィクである。ナルヴィクへは、スウェーデンのストックホルムから寝台列車で一昼夜かけて到着した。終着駅ナルヴィクは、ホーム二面のみの意外に小さな駅であった。駅舎は、山と海に挟まれた狭い土地に建っている。私たちは駅から伸びる中央通りを数分歩き、由緒あるホテルに旅装を解いた。 翌日は早速、朝からナルヴィクの観光に出かけた。狭い街を抜けると、すぐ港に突き当たる。フィヨルド(峡湾)の奥に位置する海面は、湖のようにさざ波ひとつ立たない。港には、鉱石を積み出す巨大な港湾施設がある。私たちは、港湾施設見学のツアーに参加することにした。集合場所の門前で待つこと15分、三々五々と参加者が集まって来た。そこへ自転車に乗ってやって来たのが、ガイドの「マリットさん」であった。彼女は西洋女性にしては小柄な体で、清楚な顔立ちをしている。ツアーの開始前に、彼女は参加者の国籍を聞く。どうやらガイドに使用する言葉を決めておきたいらしい。30人余りの参加者の大半が、ドイツ人である。かつてここを占領したドイツ人が、今は観光客として大勢訪れているのだ。地元のノルウェー人は、意外と少ない。このツアーには珍しく、アメリカ、イギリス等の英語圏参加者がいない。日本人の参加者は、私と妻の二人だけである。マリットさんの案内で、いよいよツアーが始まった。 はるばるスウェーデンから鉄路で運ばれた鉄鉱石は、引込み線で直接この積み出しに到着する。積みおろされた鉱石は、巨大なコンベアーで接岸した輸送船に積み込まれる。マリットさんはポイントごとに立ち止まると、観光案内の説明をする。初めにドイツ語のガイドから、次にノルウェー語が続く。マリットさんが、私たちに何語が良いか聞く。冗談に「日本語は?」と聞くが、答えはもちろん「ノー」である。結局、英語で説明することになった。ドイツ語、ノルウェー語のガイドが終わった後、私たち二人に対する英語のガイドが続く。この間、大半の参加者は待たされる。私が恐縮して、「私たち二人だけのガイドは要らない」と言うと、マリットさんは「貴方たちもお客さまです」と言う。周りの参加者も「遠慮するな」と言って、じっと待っていてくれる。マリットさんは手を抜くことなく、誠実にガイドをしてくれる。その真摯な姿に心を打たれ、すっかりマリットさんが気に入った。 折りしも暗雲が垂れ込めると、ポツポツと雨が降り出した。参加者は足早に、雨宿り場所を探す。私たちは持参していた傘をさし、歩き出した。ふと前方を見ると、マリットさんが傘もささずに歩いている。思わず「プリーズ(どうぞ)」と言って、マリットさんを誘う。マリットさんは、ためらわず傘に入ってきた。歩きながらマリットさんに、個人的な質問をしてみた。彼女は地元の大学に学びながら、アルバイトにガイドをしているとのこと。将来は旅行業者の資格を取り、世界中を旅してみたい。その時は、ぜひ日本にも行って見たいと言う。しばしの雨にガイドが中断した機会に、マリットさんと交流を持つ機会を得た。予定のツアーが終わり、マリットさんとお別れの時が来た。私たちのために親切なガイドと個人的な交流を持てたお礼を述べ、固い握手をしてマリットさんと別れた。別れ際に大きく見開いたマリットさんの瞳に、再び現れた青空が映り、今なお私の脳裏に刻み込まれている。 (後記);帰国後マリットさんと何度か便りを交わしたが、音信が次第に遠のいてしまった。あれから10余年、彼女は希望どおり旅行業者になって、世界を駆け巡っているのだろうか。消息を知りたい昨今である。 |
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(その2)想い出の駅、想い出の人2;
イギリス
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(その1)マリソルとの出会い (文責)角田昌夫 駅は人が出会い、別れる場所である。往年のイギリス映画「逢いびき」にも、一組の男女の出会いから別れまでが描かれていた。鉄道で旅する私は、旅先きで出会う人が多い。「一期一会」と言う言葉があるが、その中には終生忘れ得ぬ想い出を残した人がいる。そこで今回から、過去の旅で出会った人と駅を巡る思い出を紹介していきたい。 「マリソル」と出会ったのは、スペイン北部の「パンプローナ」へ向かう時であった。パンプローナはピレネー山脈の麓に位置し、街中で牛を追い回す「サン・フェルミン祭」が有名である。フランスからスペイン北部の観光地「サン・セバスティアン」に一泊した後、私たちは乗り換えのためマドリッドへ向かう本線から分岐駅「アルサスア」へ降りた。田舎の駅の昼下がりは、ホームに人影を見ない。そろそろ昼食をと駅前を見渡したが、レストランらしき建物が見当たらない。そこへタクシーの運転手が現れ、「ここには、レストランがない。駅から離れた街のレストランへ案内しよう。」という。断って駅の裏へ回ると、なんとレストランがちゃんとあるではないか。すぐ分かる嘘つきぶりには、思わず微笑みを覚えた。 レストランに入ってテーブルにつくと、ウェイトレスの少女が注文を取りにきた。思えば、これが「マリソル」との出会いであった。大柄なヨーロッパ女性を見慣れてきた私には、小柄な彼女に親近感を感じた。黒い瞳に黒い髪も、日本女性を思い出させる。折りしも昼食時とあって、店内は満席である。客はこの付近で働く常連の人が多いらしく、あちこちから「マリソル、マリソル!」と声が掛かる。どうやら彼女は、人気者の看板娘らしい。待つことしばしで、注文の料理が来た。 食べ始めてしばらくすると、再び彼女がツカツカと近寄って来た。「ペルドネ・メ、セニョール(済みませんが)」と、おずおず切り出す。何あらんと思うと、向かいの席のフランス人男女の通訳をしてくれと言う。隣り同士の国の人間が遠いアジアの人間に通訳を頼むとは、考えれば異な話ではある。だが頼まれて厭とは言えない性格の私だ。幸い二人は英語を話すので、用件が分かった。 聞けば、「梨が食べたいが、スペイン語がわからない」と言う。隣りの国なのに梨くらい覚えておけば良いのにと思ったが、ふと手元の「五ヶ国語会話集」を思い出した。早速ひも解くと、「Pera」と出ている。「Peraが食べたいそうだ」と言うと、「困った人たちね」とマリソルが鼻の脇にしわを寄せる。その表情がとても可愛く、すっかりマリソルが気に入った。通訳成功で私の信用がすっかり増したのか、マリソルは何かと私たちのテーブルにやって来る。幸い私のスペイン語でも、会話が何とか成り立つ。マリソルは「あれが美味しい。これも美味しい」と、さかんに料理を勧める。向こうのテーブルからの声をそっちのけで、私たちにサービスしてくれる。昼食を十二分に堪能した私たちは、応分のチップをあげてマリソルに別れを告げた。 さて、パンプローナの滞在を終えた帰りのことである。再び乗り換えに「アルサスア」に降りた。折りしも、またまた昼食時である。マリソルに会えるかも知れないと、レストランを覗いてみた。私たちに気がついたマリソルは、覚えていたと見えて駆け寄って来た。私たちがテーブルに着くと、「何を食べる?」と気軽に肩を叩く。その気安さはまるで浅草辺りの下町娘という感じで、ますますマリソルが気に入った。今回も周りから「マリソル、マリソル!」と、相変わらずの人気者である。小柄な体で客の注文を捌きながら、マリソルは私たちにも十二分のサービスをしてくれた。これで別れを告げるのは残念だったが、後ろ髪を惹かれる想いでマリソルに、「アスタ・ラ・ヴィスタ(また逢いましょう!)」を言った。マリソルはその名のとおり、太陽(ソル)のように明るいセニョリータ(お嬢さん)であった。 スペインの田舎町で出会ったマリソル!彼女の想い出は、今でも私の心に温かい灯を燈してくれている。 追記;あれから、もう20年余。健在ならば、マリソルも40歳を越えている。今は家庭の主婦におさまっているのか。それとも相変わらず「アルサスア」のレストランで働いているのか。どなたか見てきてくれませんか?
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