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株式会社欧州エキスプレス |
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英国鉄道 全路線網羅 された角田昌夫様 久々の鉄道旅行 お話・お写真頂きました。 第7では ドイツで有名な日本人? の事を訊かれたり・・・ ●東欧レイルパス1等10日間 ご利用 2006/10/6 〜 10/27 |
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2006年チェコの旅;その7 (文責)角田昌夫 |
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再びチェコで、ヤロさんに再会 ドレスデン訪問を終えた私たちは、再びチェコに戻ることにした。10月20日(金)朝、いつもより早めに下のレストランへ行く。このホテルでは、これで4回目のバイキング朝食になる。9時にフロントでチェックアウトを済ませ、トランクを引いてドレスデン中央駅へ向かう。本日の列車は「EC171(ハンガリア)」で、ベルリンを朝7時35分に出発して終着駅ブダペストには19時22分に着く国際列車である。ドレスデン中央駅には、9時53分に到着予定である。私たちは上のホームに上がって、17番線で列車を待つ。金曜日で混雑が予想されたので、予め座席指定をとっておいた。私たちの座席は、262号車の31、32番である。ホームの列車編成表を見ると、262号車は列車の先頭部にある。ホームの前方で待っていると、何やらアナウンスと同時に乗客が動き出した。もしやホーム変更かと思ったが、ホームの表示は変わらない。外国の鉄道で、一番気を遣うのは列車の遅れやホームの変更である。よく見ると、対向列車のベルリン行きがホーム変更になったらしい。ヤレヤレひと安心と待つことしばし、5分遅れでEC171列車が入ってきた。ところでドレスデンからドイツ国内のシェーナまでは、東ヨーロッパ周遊券が使えない。この区間は、別途にドレスデン駅で購入しておいた。代金は19.40ユーロ(約3000円)で、これに座席指定料の6ユーロ(約900円)を払った。
「ドレスデン中央駅の正面です。戦災の跡の復元が続いていました。これは、上のホームから見下ろした風景です」
「空を飛ぶのは、ツェペリン飛行船」 「ホテルの部屋から見下ろした大通り」
いよいよ、ドレスデンを出発 車内はガラガラで、結果的には座席指定は必要なかった。向かい席には、学生風の中国人女性が4人坐った。さて10時頃にドレスデンを発車した列車は、往路をエルベに沿って走る。間もなく、お決まりのパスポート検査があった。今回もドイツ側とチェコ側のペアーで、検査が行われた。私たちの検査は、形式的終わった。ところが中国女性たちの検査が、いやに手間取っている。私の席からは見えないが、妻が「検査官がパスポートを虫眼鏡で見ている」と言う。察するに、中国は要警戒の国に入っているのだろうか。国によって扱いの違いに、喜んでいて良いのか複雑の気持ちになった。さて11時半になったので、早めに隣のレストランカーへ行く。メニューは定番のビール「バッドワイザー」と、パプリカのスープとオムレツである。12時27分に、プラハ中央駅に着いた。ここで、向かいの中国人女性連が降りて行った。さてプラハに13分停車した列車は、12時40分に発車して一路東へ向かう。コリンからは、往路とは別の線を走る。この線は、前回のチェコ訪問でブルノまで乗った路線である。この辺りはボヘミアの山地が張り出していて、丘や谷を縫って走る。14時13分に、「チェスカ・トジェボーヴァ」に着く。ここからオロモウツまでは、乗り換えになる。ホームの表示で、オモロウツ行きの番線を見つける。ともかく英語が余り通じない土地では、何と無く不安を感ずる。1番線で待つことしばし、オモロウツ行きの表示を付けた列車がやって来た。列車は一路オモロウツへ向かって走り、20分遅れの16時5分に懐かしのオモロウツに着いた。
鉄道の旅あれこれ;その5 ドレスデンから乗った中国人女性たちは、英語を話した。「どこから来たの?」と聞くと、「ドイツのワイマールに住んでいる」とのこと。留学して建築を学んでいるそうで、かなりの金持ちの子女らしい。市場経済導入で、富裕層が出現した証拠だろうか。彼女のリーダー格の女性が、質問があると聞きにきた。『この人を、知っているか?』と、紙に書いた名前を見せる。そこには、「植村秀」と漢字で人名が書かれていた。『ドイツで有名な美容師で、どこにいるか探している』と言う。そう言えばドレスデンのデパート「カールスシュタット」に、資生堂が入っていた。念のため資生堂を教えたら、よく知っていると言う。残念ながら、彼女らの質問には答えられなかった。社会主義を歩む中国の若い世代が、美容に関心を抱いている姿にいささか隔世の感を抱いた。
「ホテル・シグマの壁面には、Litovelビールの宣伝が書かれていました 」
ホテル・シグマにチェックイン 駅前に立つと、我らの定宿「ホテル・シグマ」が見えた。早速チェックインすると、フロントでヤナさんが向かえてくれた。ヤナさんは大柄な黒髪のマダムで、すでに顔見知りになっていた。今回の宿泊は、シャワーではなく風呂付のスイートルームを予約しておいた。前回の8泊にドレスデンでの4泊を加えて、シャワーの部屋に12泊していた。そろそろ、風呂にゆっくり漬かりたい頃だ。8階のスイートルームは、さすがに広い部屋だった。二間続きの部屋に、待望の浴槽もあった。ここに後2泊して、明日はヤロさんと再会する予定だ。
スイートルームは、スイート? さてスイートルームに入ったが、期待に反してスイートではなかった。まず二間続きの部屋が、広すぎた。しかも寝室と居間が離れていて、ベッドでテレビが見られない。折りしも10月の下旬とあって、そろそろ肌寒なってきた。寒々した部屋だが、まだスチームが入らない。仕方なくフロントで毛布を頼んだが、時間を過ぎたのか出せないと言う。妻がフロントの女性に掛け合って、小さな電気ストーブを借りてきた。スイッチを入れると確かに温かいが、音が煩くて眠れない。結局、下着やアノラックを着込んで寝る破目になった。辛うじて大きな浴槽に湯をはって入ったが、外へ出ると湯ざめしそうになった。これで値段は普通部屋の1485コルナ(約7500円)に対して、2120コルナ(約1万600円)でそれほどの差がなかった。そして翌日の夜は、毛布を借りて安眠出来た。
ヤロさんと再会 10月21日(土)朝7時半に、下のレストランへ行く。ここの取り得は、いつも空いていて静かなことだ。それに、料理も悪くない。さて9時前に、ホテルの玄関でヤロさんを待つ。久しぶりの再会に、固い握手をして駅へ向かう。今日はヤロさんが、ポーランドの国境に近い山地に案内してくれる。今回の切符は私たちが買って、駅のカフェでドレスデン訪問の報告をする。ローカル線のディーゼルカーで、9時31分にオロモウツを出発する。今日のコースは、いつもと違って北上する。列車はモラヴィア平原から、丘を越え山地に入る。線路の脇を、清らかな流れが寄り添う。ヤロさんが『モラーヴァ川ですよ。この川はポーランドとの国境山地から、モラヴィア地方を流れドナウ川に流れ込みます』と説明してくれる。確かに行く手の山地が、ドナウへ流れるモラーヴァ川とバルト海へ流れるオーデル川の分水嶺になってる。はからずも、ヨーロッパの二大流域に辿り着いたわけだ。突然ヤロさんが、『ここで、バスに乗り換えます』と言う。何でも今日は線路工事があり、バスが代行するそうだ。我が日本や、イギリスでもあることだ。別に、チェコにあっても可笑しくはない。なるほど、駅前に大小のバスが二台待っている。乗客は三々五々に乗り込むので、私たちも大型の方へ乗る。思わぬ、チェコの田舎ドライブを体験する。15分も走って、次の駅から再び列車に乗る。もう午後1時を過ぎた頃、終点の「イェセニック(Jesenik)」に着く。
「モラヴィア盆地を見下ろす古城は、紅葉に彩られていました」
線路の向こうには、ポーランドの山が見えました」 「ヤロさんと、町を歩きました。ここにも、紅葉が始まっていました」
ポーランドとの国境に着く 前方の山が、ポーランドとの国境らしい。両側には1300メートル級の山々が聳え、モラーヴァ川も渓流になった。お腹がすっかり空いてきたが、ヤロさんは慌てず素知らぬ顔だ。とにかくヤロさん任せで、駅前の坂を下る。市庁舎のある広場に出ると、向かい側にレストランがあった。ヤロさんの予定に入っていたようで、『ここのギリシャ料理は、美味しいですよ』と言う。聞けば、ギリシャ系の人々が住んでいると言う。色白で細面の少女が、注文を取りに来る。ヤロさんお任せのメニューは、黒ビールに肉とサラダ。付け合せのポテトが、とにかく旨い。駅に戻ると、ちょうど列車が待っていた。再び工事区間をバスの代行に乗り、往路を引き返す。18時過ぎにオロモウツに着き、駅でヤロさんにプレゼントのタバコを買う。ヘビースモーカーのヤロさんには、タバコのプレゼントが良いと妻の提案であった。予めヤロさん好みのブランドを聞いておいて、1ダースをプレゼントした。本当は禁煙を勧めたいのだが、それも気の毒な感じがした。
いよいよ、ヤロさんとお別れ 今晩はヤロさんに頼んで、夜まで付き合って貰った。ホテルの2階に中国レストランがあり、けっこう料理がいける。ヤロさんを中国レストランに招待して、お別れディナーを催した。二階のレストランはたびたび通ったので、中国人スタッフとも顔見知りになっていた。彼らはチェコ生まれの中国人で、中国語も英語も話せない。席に着くと、さっそく乾杯をする。ここには珍しく、日本酒があった。どこの酒か聞いてみたが、分からないと言う。でも確かに、日本酒であった。料理はマーボー豆腐と、焼きソバ風の「広東ヌードル」が売り物だった。ついで、地ビールのリトベルも頼む。これでヤロさんとも、いよいよお別れ。名残りは惜しいが、ホテルの外でお別れする。固い握手を交わし、ヤロさんは駅前の広場を歩いて行く。何度も振り返りながら歩く姿を、私たちは見送った。ナ・スフレダノウ(さようなら)、ヤロさん!ジェックイ・ヴァーム(有り難う)、ヤロさん!
レストランでの出来事 この中国レストランでのハプニングです。私たちの席の向かいに、チェコ人の父親と男女の子が坐りました。何故か、母親の姿がありません。「母子家庭なのかしら?」と、さっそく妻がコメント。飲み物を注文した彼らに、間もなく母親らしい若い女性が加わりました。どうやら、仕事を切り上げて駆けつけたようです。「ホラ!やっぱりお母さんがいたろう」と、私。さて料理を食べ始めた彼らは、箸が使いにくいようです。見かねた妻が、「こう持つのよ」と手まねで教えてやりました。幸い父親が英語を話すので、質問してみました。地元の家族で、中国料理が大好きとのことです。ご飯も、けっこう食べるとか。いつか日本へ行ってみたいと言うので、「お待ちしていますよ!」と言って別れました。 |
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英国鉄道 全路線網羅 された角田昌夫様 久々の鉄道旅行 お話・お写真頂きました。 ●東欧レイルパス1等10日間 ご利用 2006/10/6 〜 10/27 第6では日本には馴染みの少ない小数民族のお話や<ピルナ> と暗号名「T4計画」 のお話とか あまり観光案内書には見られない内容がイッパイです。 ビールの値段、お話も楽しいです! |
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2006年チェコの旅; その6
ドレスデン周辺を歩く (文責)角田昌夫 |
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ドレスデンに到着して3日目の10月18日(水)、ソルブ人が住む「バウツェン」を訪問する日を迎えた。話しは20余年前に遡るが、ある新聞のコラムで私は彼らの存在を知った。それ以来いつか「ソルブの里」を訪ねることが、私の夢になっていた。ソルブ人は西スラブ系の民族で、紀元600年頃にゲルマン系の民族が西方に移住した後この地方に集団移住して来た民族である。彼らは、最盛期にはライン川の西部まで居住地を広げていたようである。以後1400年にわたり周囲をドイツ人に囲まれながら、彼らは固有の民族・習慣・言語を保ってきた。ドイツでは彼らを「ラウジッツ」と呼んでいるが、ドレスデンの周辺にまだ6万人が居住するという。実は前回のドレスデン訪問で、私はその中心地「バウツェン」を通過していた。帰国した後でこの居住地が分かり、今回の訪問になったわけである。 朝9時15分にホテルを出て、ドレスデン中央駅に行く。今回も周遊券が使えないので、駅の窓口で切符を買う。自動券売機が在るが、何度も試したが使い方がわからない。とりあえず、窓口で「バウツェン」までの往復切符を買う。女性の担当者が気を利かせて、「ザクセン周遊券」なるものを13ユーロ(約2000円)で売ってくれた。特に行く先が明示されていないが、察するに「バウツェン」の往復が割安になるらしい。但しJRに較べて、60km(上野・熊谷間の距離)では特に安くはないようだ。
「ドレスデン駅では、下のホームから発車します。左の列車に乗りました」
大きなドームに覆われたホームに出ると、9番線に列車が入線していた。今回は「ゲルリッツ行き」の長距離列車で、電化されていないのでディーゼルカーだった。ドレスデン中央駅は上野駅と同様に、下のホームが始発列車用、上のホームが通過列車用になっている。9時45分にドレスデンを発車すると、市内のビル街を見下ろす高架線を走る。「ドレスデン・ミッテ(中間)駅」を過ぎると、エルベ川の鉄橋を渡り「ドレスデン・ノイシュタト(新市街)駅」に着く。中央駅前から延びてきた路面電車が、窓から見えた。さて列車は郊外に出ると、緑の原野を驀進する。線路の両側には、緑の森林が続く。西側のドイツに較べて、東側のドイツには自然が残っているようだ。これも結果的に、東ドイツ時代に開発が遅れていた証拠であろうか。列車はベルリン方面の線路と分かれて、東に向かう。平日の下り列車とあって、車内はガラガラである。向かいの座席の夫婦は、朝食なのか何やら食べ始めた。妻がさっそく、「朝ご飯にしては遅いし、昼ご飯にしては早いわね」とコメントする。列車は林や畑を疾走して、10時41分「バウツェン」に着いた。なるほどホームや駅舎の表示は、ドイツ語とソルブ語らしい二重の言葉で書かれている。とりあえず駅前の地図を見て、観光案内所を探す。
「バウツェンのホームや駅舎の表示は、ドイツ語とソルブ語のバイリンガル」
市内を歩いて行くと、それらしい建物があった。中に入るとバスセンターだったが、女性の係員が親切にも市内の地図をくれた。市の広場の奥に、案内所があるらしい。行き交う人々を見ても、ソルブ人かドイツ人かの見分けは付かない。ヨーロッパ人が、日本人と朝鮮人の区別が付かないのと同じ状況なのか。間もなく広場に出ると、向かいに大きな建物があった。近づくと、「ソルブ」の文字が見えた。運よく「ソルブの館」に着いたらしい。中に入ると広々としたホールに、女性の職員がいた。どうやら、「今日はお休み」と言っているようだ。周囲にはマネキンに着せた民族衣装や、日常に使う品々が展示されている。休館でも、ソルブの展示品を見学できた。お昼時なので、奥を覗くとレストランがある。聞けば「営業中」と言うので、さっそく中に入る。まだ早いので客はいないが、中年の女性が丁寧に応待してくれる。とりあえず、ソルブの民族料理とビールを注文する。綺麗なデザインのラベルを貼った瓶に、ソルブ特製のビールが出てきた。味もなかなか素敵だ。ソルブ特製のスープとペンネを食べて料金は18.30ユーロ(約3000円)だった。因みに各単価を紹介すると、ビール(500mlで180円)・ソルブ風スープ(435円)・ペンネ(1125円)・コーヒー(195円)であった。応待の女性と英語が通じたので、手帳にソルブ語の簡単な挨拶言葉を書いて貰った。なるほど、確かにロシア語に似た言葉だ。スラブ語系の特徴として、「お早う!」を現す言葉に必ず「ドーブリ」が付く。食事を終えた帰り際にカウンターの青年に挨拶すると、若い彼もソルブ語で挨拶を返してくれた。再び市内を歩いて、駅へ戻る。13時15分の列車で、往路を引き返す。向かいの席に、可愛い男の子と母親が乗ってきた。男の子は手にした玩具のギターで、演奏をしてみせてくれた。妻が「ステキ!」と手を叩くと、男の子は恥ずかしそうに微笑んでいた。言葉は通じないが、ささやかな国際交流になった。
「ラベルがステキなソルブのビール!」 」
ここらで、ホテルの朝食風景を紹介しよう。最近のホテルは内外を問わず、どこもバイキング形式の朝食だ。私は列に並んで料理を取ったり、後ろに並ばれたりするのが嫌いだ。それでも前回に「メルキュール」に泊った時は、静かで落ち着いた朝食が取れた記憶がある。今回の宿泊でも、朝食を楽しみにしていた。ところが、どうだろう。宿泊した翌朝、一階のレストランに入ったら、大変な混雑だ。見渡したところ、ドイツ人の団体でいっぱいだ。珍しく日本人の団体も、その姿を見せている。幸い係りの案内で、入り口に近い席が取れた。隣の席のドイツ人に「モルゲン!」と挨拶すると、気さくに「モルゲン!」と返してくれた。正しくは「グーテン・モルゲン」だが、みんな「モルゲン」だけらしい。英語でも「グッド・モーニング」を、「モーニン」と省略するのと同様かも知れない。ドイツ人と言うと気難しい先入観があるが、意外と気さくな人が多い。日本語で「ハジメマシテ!」と、愛嬌を振りまくオジサンもいた。初日はどうしても、料理の配置が分からない。ウロウロするのも嫌なので、適当に取って席へ戻る。妻がバナナを取って来たので、「どこにあったの?」と聞いて取りに行く。さて二日目からは、大体の配置が分かりテキパキと料理を集めることが出来た。三日目になると早くも、このホテルのベテラン・バイキンガー(これは造語です)になっていた。
ドレスデンで、もう一ヶ所訪ねたい場所があった。郊外の「ピルナ」にあったナチス・ドイツによる「障害者安楽死施設跡」である。ナチス・ドイツによるユダヤ人の虐殺は有名だが、その前に自国ドイツの障害者を「安楽死」の名のもとに殺していたことは余り知られていない。1940年から始まった暗号名「T4計画」では、ドイツ全土に6ヶ所の施設を設けて総数で7万人余の障害者を虐殺していた。私は前回のドイツ訪問で、フランクフルト・アム・マイン郊外の「ハダマー」を訪れていた。帰国後にドレスデン郊外の「ピルナ」にも「安楽死施設」があることが分かり、今回の訪問となった。
「二階建て列車で出発」
「食べきれないサンドイッチは、テイクアウトに」
「デザートに、巨大なピーチメルバが出てきた(これは、ドレスデン)」
さて駅に戻り、タクシーに乗る。緑に包まれた丘を一気に登ると、城の一角に着いた。正面の古い建物が、目指す「ゾンネンシュタイン施設跡」だった。今は建物が残っているだけで、壁の銘板で「施設跡」だと分かった。もともとあった精神病院を「安楽死施設」に転用して、知的障害者や肢体不自由者、精神障害者など、ここだけで1万3720人の障害者が安楽死させられた。当時はCOガスが使われ、「安楽死」の名の下に多くの障害者が苦悶死させられたはずだ。私たちは銘板の前に立って、ナチスの暴挙の犠牲者に心から黙祷を捧げた。かくしてドレスデン訪問の目的を達成し、明日はチェコに戻ることになった。
「ゾンネンシュタイン施設跡。今は、建物が残っているだけでした」 「ピルナの市街地。ここが、洪水で水没したそうだ」
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英国鉄道 全路線網羅 された角田昌夫様 久々の鉄道旅行 お話・お写真頂きました。 ●チェコその5は ザクセンのスイス、 ナチスの障害者安楽施設 更にドレスデン中央駅お勧め安くてお得なメニュー など特に興味深い記載で時間を忘れます。 ●東欧レイルパス1等10日間 ご利用 2006/10/6 〜 10/27 |
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2006年チェコの旅;その5 (文責)角田昌夫 |
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チェコからドレスデン入りした目的が、幾つかあった。第一は、チェコから国際列車を利用することである。しかも前回は初夏に通過した「エルベの谷」を、秋の紅葉の時期に再度訪問することである。第二は、復興再建なったドレスデンの「聖母教会」を訪ねること。そして「ザクセンのスイス」と呼ばれるエルベ川中流の奇岩群を訪ねることである。第三は、ドレスデン近郊のピルナにあるナチスの「障害者安楽死施設」を訪ねること。更に1400年前に移動して、住み着いているスラブ系の民族「ソルブの郷」を訪ねることなど、ドレスデン再訪の目的は尽きない。そのため、ドレスデン滞在に四泊をあてた。 「左はドレスデン駅ホームから見た観覧車。その観覧車に乗ると、我がホテル・メルキュールが中央に見えました」
ホテルに荷物を置くと、旧市街へ向かう。プラガー通りの両側には、再開発で新築した建物群が並ぶ。更に進むと、ドレスデン発祥の地「アルトマルクト広場」に出た。広場の奥には、黒ずんだ「クロイツ・キルヘ(聖十字架教会)」が聳えている。この辺りは第二次世界大戦の空襲で、壊滅的破壊を受けたはずだ。やがて中空に、教会の尖塔が見えてきた。これこそ、前回の訪問で再建中だったフラウエン・キルヘ(聖母教会)である。昨年復興再建を終えた教会は、折りしもの夕陽を浴びて赤く染まった姿で中空に聳えていた。この周辺の地域は、引き続き戦前の姿を目指して市街地の復旧が続いていた。
時は1945年(昭和20年)2月13日の深夜から、翌14日にかけてのことである。イギリス・アメリカ軍の爆撃機合計1084機が、三波にわたってドレスデンを襲った。その投下爆弾は5000トンに及び、空襲による死者は少なくとも13万5000人に及ぶとされている。実際には東部戦線の戦火を避けて多くの避難民が市内に居住していて、通常爆弾の被害としては東京やハンブルクを上回る被害者を出したと推定されている。この爆撃で完全に破壊された聖母教会の復旧は1989年から始まり、昨年の10月に完成したそうだ。前回の訪問では、まだ下半分しか復元されていなかった。何しろ破壊された建物の破片を、一つ一つ集めてモザイクのように嵌め込んでいた。莫大な費用が掛かると聞いて、私も1000円ほどのカンパをしてきた。今や完全に復元された教会は、夕陽の中に鮮やかに浮かび上がっていた。内部に入ると、中央の祭壇を囲んで大勢の人で埋まっていた。どうやら信者というより、我々と同じ観光客のようだ。私たちは1ユーロ(約150円)でロウソクを買うと、点火して壁のコーナーに置き全ての犠牲者に哀悼の祈りを捧げた。妻がドレスデンの記念にと、路傍の石を拾った。暮れなずむ広場に立つと、そこには60年前の惨劇を感じない平和なドレスデンがあった。
「復興再建なった聖母教会」
「左は夕陽に映える聖母教会です。尖塔の十字架は、イギリスから謝罪のために贈られたものです。右は壁面の一部です。色の違う部分は、元の破片を嵌め込んだ痕を示しています」
エルベ川は、チェコの山間部からドレスデンの手前で深い谷を形成する。谷の両側には岩峰が並び、「ザクセンのスイス」と呼ばれる景勝地を成す。その岩峰には、人工の「バスタイ橋」が架かっている。10月17日(水)前回の旅で見逃した「ザクセンのスイス」を、いよいよ訪れることにした。朝9時過ぎ、巨大なドームに覆われたドレスデン中央駅に向かう。念のため、ホテルの横にある観光案内所で下車駅を聞いておく。ホームには、二階建ての赤い近郊列車が停まっていた。10時半に発車した列車は、郊外に出ると緑のエルベの谷へ分け入って行く。間もなく下車駅「Kurort Rathen」に着いた。駅を降りるとフェリーがあり、これで対岸に渡る。僅か100メートルほどの川幅だが、エルベ川のクルーズを楽しめた。対岸で料金を払うのだが、年配の係員が一人ひとり集めている。ドイツにしては、いやに非能率的だ。対岸に渡ってすぐに、バス停留所があった。12時15分のバスが来たが、小型バスで乗り遅れた。岩峰の上の「ホテル・バスタイ」でランチを食べる予定を変えて、近くのレストランへ入る。ここも混雑していて、次のバスも間に合わなかった。やっと13時52分のバスに乗るが、運転手が「最終バスだよ」と言う。バスが一気に裏山に登ると、上には緑の平原が現われた。遠くには、チェコ国境のエルツ山地が浮かんでいる。30分ほどで終点に着いたが、運転手が「あと30分しか無い」と言う。さあ、大変だ!急いでバスタイ橋に向かう。 「フェリーで、エルベ川を渡りました。背後の聳える岩峰上にバスタイ橋が架かり、ホテルがあります」
人混みを掻き分け、橋に着いた。なるほど千尋の谷で、遥かに真下にエルベの流れが見える。帰りの時間に迫られ、妻の写真を撮って帰路に着く。崖淵に建つ「ホテル・バスタイ」を横目に見て、往路を引き返す。再び小型バスに乗り、フェリー乗り場に着く。16時22分に2階建て列車で、「Kurort Rathen」を発つ。列車は16時58分に、ドレスデン中央駅に着いた。駅舎内に「マルクト(市場)」を見つけて入ると、食品売り場とカフェテリアを兼ねている。好きなメニューを買って、脇の席で食べることが出来る。おまけにビールまである。私たちは、ドイツ名物のポテト料理やビールで夕食を済ませた。ホテルのレストランで食事を摂ると、最低1時間は掛かる。安い、早い、旨いの三拍子揃った「マルクト」は、ドレスデン駅のお勧めです。駅前通りの奥にあるデパート「Karlstadt」で、ヤロさんの母親と姪子さんにプレゼントのマフラーを買ってホテルへ戻る。 「バスタイ橋から見下ろしたエルベの流れです」
ドレスデンに着いた時から、駅の横に聳える観覧車が気になっていた。前回の訪問にはなかったが、乗れば景色が良さそうだ。妻の希望もあり、さっそく翌日乗ってみた。窓口で切符を買って、乗り場へ行く。日本のように動きながらのゴンドラに乗らず、いちいち停めるので時間が掛かる。徐々に高度を上げると、ドレスデン市街が一望できる。真下にはドレスデン中央駅の巨大なドームと、我がホテル「メルキュール」も見える。一周で30分ほどの観覧であったが、充分に楽しめた観覧車であった。これからドレスデンに行かれる方には、ぜひお勧めですよ。
ドレスデンからバスタイ橋に向かう車内でのことです。発車して間もなく、車掌さんが通りました。実は観光案内所で聞いた下車駅が、地図で照合すると遠いようです。そこで車掌さんに確かめたのですが、運悪く英語が分からない車掌さんです。困っていると、向かいの席に坐っていた家族連れの女性が英語で助けてくれました。結果的に、もう一つ先の駅が良いということが分かりました。余りに上手な英語に「イギリスの方ですか?」と聞きますと、「私はドイツ人ですが、小さい頃に上海に住んでいました」との答えでした。何か凄いドラマを感じましたが、お聞きする前に降りる駅に着いてしまいました。 「下車駅の背後に聳えるバスタイの岩峰です。この上に、橋が架かっています」
「向かいのホームに、列車が到着しました」
「バスタイ橋に立つ妻です。下は千尋の谷。」 |
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英国鉄道 全路線網羅 された角田昌夫様 久々の鉄道旅行 お話・お写真頂きました。今回ペンドリーノの車内写真・ 食事・座席 、パスポート検査等、 是非ご覧下さい。 ●東欧レイルパス1等10日間 ご利用 2006/10/6 〜 10/27 |
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2006年秋; チェコの旅 (その4) 「 ペ ン ド リ ー ノ 」 に 乗 っ て 、ド イ ツ へ 。 (文責)角田昌夫 |
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チェコのオロモウツに10日間滞在した私たちは、列車でドイツのドレスデンへ向かった。2000年にドレスデンを訪問した時に、見残した場所が何ヵ所かあった。そこを訪問するのが、今回のドレスデン行きの目的である。
さて10月16日の朝、私たちはトランクを引いてオロモウツ駅に向かった。本日乗るペンドリーノはオストラバ発9時45分のSC504列車(SCはスーパーシティ)で、オロモウツには10時49分に着く。しばらく時間があるので駅舎内を覗くと、珍しく一等乗客向けのラウンジがあった。さっそく中に入ったが、これと言って変哲もない。そろそろ時間なので、予めチェックしておいた2番ホームへ行く。毎度のことながら、列車に乗る時は気を遣う ホームは2番と明示されているが、私たちの乗る車両をチェックしなければならない。私たちは念のため、前日に座席指定を取っておいた。これはオロモウツ駅の予約窓口で、簡単に取れた。但し、特別料金を一人当たり200コルナ(約1000円)払った。2番ホームへ出て、「列車編成表」を見る。ヨーロッパの主要駅には、必ず図解入りの列車編成表がある。私たちの車両は7両編成の1号車(最後尾)で、ホームの後方で待つ。間もなく、定刻にペンドリーノが到着した。前面はユーロスターや、新幹線風の流線型である。車体の色は、チェコ国鉄カラーの青と白に黄色い線が入っている。トランクを引っ張り上げ高いステップを登りかかると、上から女性アテンダントさんが手を貸してくれた。ついでに、私たちの指定席に案内してくれた。驚いたことに、車内はガラガラ。これでは、指定席の必要はなかった。
「座席指定をとった一等車は、がらがらだった」 「スペースが狭く、しかも進行方向と逆向きだった」
座席14、16番に坐って、また驚いた。まず座席が固定されていて、私たちの席は進行方向と逆向きだ。おまけに一等車なのに、座席のスペースは新幹線の2等車並みの狭さだ。「うーん、これが期待のペンドリーノか!」と、ややガッカリした次第だ。間もなくアテンダントさんが、ランチの注文を取りにきた。これは一等車では、無料サービスらしい。ついでにビールも頼むと、チェコ名物のピルゼンビールがきた。ランチそのものは、ファーストフード風の軽食だ。これでは腹が減ると思ったが、意外にも食べ終わると満腹していた。 列車はモラヴィアの原野から、ボヘミアの谷へ分け入って行く。時速130kmを期待したが、いやにノロノロ運転だ。そう言えば、「線路の付け替えをしている」とヤロさんが言っていた。所々で、単線の列車交換がある。新しい軌道やトンネル工事で、公称時速230kmに備えているらしい。またEU加盟により、駅舎のバリアフリー化工事なども義務付けられているらしい。沿線で見かけたEUマークは、EUの資金で工事を進めている印だそうだ。チェコとしてもペンドリーノを隣国のドイツやスロバキア、ハンガリーへと乗り入れたいらしいが、電圧や列車信号の違いなど解決すべき問題が多いとヤロさんは言う。なにしろ元車掌のヤロさんだけに、コメントは詳しい。 「プラハ中央駅に到着したペンドリーノ」 写真 写真
「プラハ中央駅に、国際特急が到着 」
「これは、ローカルディーゼルカー」 13時19分の定時に、プラハ中央駅に着いた。プラハは妻も私も来ているので、今回は乗り換えのみである。駅のホームからプラハ城を探したが、位置の関係で見あたらなかった。13時25分過ぎに、「国際列車EC174」が到着した。この列車はハンガリーのブダペストを早朝6時50分に出発して、20時32分にドイツのハンブルクに着く。一度は始発から、終点まで乗ってみたい列車である。 エルベの谷を、ドレスデンへ
今回も一等の262号車で、最後尾の車両であった。隣の車両が、食堂車だったのが嬉しい。指定席の21、22番に坐ったが、車内はガラガラで指定席の必要はなかった。この席は、進行方向左側の二人掛けである。右側は4人掛けで、しかもエルベ川沿いになる。私たちは、直ちに席を右側に移した。但し念のため、座席の上の予約カードをチェックして置く。イギリスの場合と同じで、座席の上に予約カードがある。これが空欄の場合は、空席だから安心して坐れる。まれに坐っていると予約客が来て、気まずい思いをすることがある。列車は、ゆったりと流れるエルベ川に沿って走る。もっとも、チェコ領内では、エルベを「ラベ」と呼んでいる。6年前に通過した時は6月で、緑一色の谷であった。今回は10月中旬とあって、鮮やかな紅葉の谷になっていた。チェコの紅葉は紅色が少なく、黄一色だ。正に、ゴールデン・チェコが出現した。
プラハからの線路は整備されているらしく、列車は高速で走る。線路の継ぎ目がないロングレールで、少なくとも時速130kmは出ているはずだ。前回に通過した時は工事中の単線運行の連続だったので、高速化に向けた線路の整備が終わったらしい。前方には、ドイツとの国境を成すエルツ山脈が近づいて来た。この辺りは、ヒトラーがチェコ併合の理由とした「旧ズデーテン地方」になる。いよいよ列車は、ドイツとの国境の町「ヂェチン(D??in)」に着いた。この駅は周辺を含めて、もっか大工事中であった。ヂェチンを過ぎドイツ側に入ると、エルベ川は狭くて深い谷を形成する。両岸に奇岩が聳え、この辺りをドイツでは「ザクセンのスイス」と呼んでいる。ドイツの手前で、チェコとドイツのパスポート検査があった。今回も、チェコ側はうら若き女性検査官だった。15時過ぎに、隣のレストランカーへ行く。客がいないので営業停止と思ったが、マネジャーに案内されて席に着く。とりあえず、午後のコーヒーを注文して飲む。列車は、「バッド・シャンダウ」に着く。ここは、前回の旅で降りた駅である。「バッド(Bad)」が付くから、温泉(または鉱泉)があるに違いない。ここに長時間停車しているので、車掌さんに聞いたら「ここで機関車を、チェコからドイツに付け替える」と分かり易い英語で答えてくれた。さて列車はドレスデン郊外を疾走して、16時01分定時に懐かしいドレスデン中央駅に着いた。車内のドイツ人夫婦が、「ドレスデンに着いたのか?」と聞く。ドレスデンには、もう一つ「ノイシュタット駅(新市)」があるが、どうやら見慣れた中央駅に着いたらしい。「ヤー(そうですよ!)」と答えたが、考えてみると日本人の私がドイツ人に教えるとは変な話しだった。
「巨大なドレスデン中央駅。近くの観覧車から見た光景です」
これはヤロさんの案内で、モラヴィアのローカル線の旅での出来事です。とある田舎の駅に着く時、列車のドアー前に若い女性が立っていました。車内から見たら、その女性のバッグに何と日本の神社のお守りが下がっています。とっさに立ち上がった私は、出口の彼女を追いかけました。後ろか「ドブリ・デン!(コンニチハ)」と声を掛け、私のバッグの善光寺のお守りを見せました。清楚な感じの彼女は、「ワタシハ、ニホンゴヲナラッテイマス」と上手な日本語で答えてくれました。どこで、どうして習っているのか聞こうと思った時、残念ながら彼女が降りる駅に着いてしまいました。私は「さようなら!」と声を掛けて、彼女と別れました。後で考えると、彼女は私たちと同じ車両にいたはずです。大きな声でヤロさんと話していた会話を、聞いていたのに違いありません。あの時は、チェコの美しい車窓を褒めていました。「壁に耳あり」、チェコの悪口を言わなくて良かったとホッとしたひと時でした。
「国際列車の食堂車です。内装や装飾など、なかなか立派なものだった。時は午後3時とあってか、客は私たちだけでした」
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2006年秋; チ ェ コ の 旅 ( そ の 3 ) オ ロ モ ウ ツ 周 辺 を 歩 く (文責)角田昌夫 |
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オロモウツには8日間滞在して、あちこち見て歩いた。中でも最大のイベントは、ヤロさんの自宅訪問であった。その前に、オロモウツ市内を散策した。 「オロモウツ中心広場には、三位一体の塔があります。この建立式には、女王マリア・テレジアが臨席したそうです」 「市内は、石畳の連続でした」
さてオロモウツに着いた翌日、さっそく市内見学をすることにした。駅前から斜めの道を歩くと、15分で中心街に着いた。周りには教会の尖塔が大空に聳えている。広場の真ん中に、三位一体の塔が鎮座している。市庁舎の裏には、大時計もある。また、そこかしこに色々な噴水や銅像がある。いずれも、中世の宗教戦争の名残りらしい。かつてモラヴィア地方には、カトリック派と新教フス派との壮絶な争いがあったそうだ。プラハに較べると極めて地味だが、それだけに価値ある歴史的遺産が多いらしい。
さて今回のチェコ旅行で最大の目的、ヤロさん宅を訪問する日を迎えた。10月10日(火)の昼間はヤロさんとあちこち歩いたので、訪問は夕方になってしまった。ヤロさんの家はプシェロフ(P?erov)郊外のラドスラヴィツェ(Radslavice)と言う村にある。プシェロフ自体もオロモウツに次ぐ都市で、町の広場を囲んで古い町並みが並ぶ。さて駅前のバスセンターから、ローカルバスに乗る。ヤロさんと言う案内人がいるので、ここは安心して身を任せられる。市街地を抜けたバスは、曲がりくねった細い並木道を走る。モラヴィア地方の特長は、集落の間には家が一軒もない。田園地帯を走ること20分で、ヤロさんの村に着く。
ヤロさんのお母さんを囲んで」 瀟洒な家並みが続く通りの一角に、ヤロさんの家があった。最近新築したと聞いていたが、見れば白壁の大きな家である。応接間を通り奥の食堂へ行くと、ヤロさんの母親が待っていた。息子のヤロさんに較べると、小柄で品の良い女性であった。早速用意したメモを取り出し、チェコ語の挨拶をする。これは簡単な言葉なので、どうやら通じた。日本から持参したお土産を渡して、コーヒーを飲みながらヤロさんの通訳で談笑する。お土産の「お煎餅」が大好物だと、とても喜んでくれた。
「広い裏庭で、実った葡萄を食べるヤロさんと妻です」 広い裏庭に案内されて、葡萄棚から実った葡萄を取って食べる。庭は日本贔屓のヤロさん好みに、池の脇に灯篭があった。再び食堂へ戻り、ローストチキンとご飯を頂く。チキンを食べ始めると、余りに美味しいのでペロリと全部食べてしまった。ヤロさんの好意が、私の食欲を大いに刺激してくれたらしい。帰りは暗くなったので、ヤロさんにプシェロフの駅まで送って貰った。かくして、今回のチェコ訪問最大の目的を無事に果たせた。
帰りの車内での出来事です。私たちの車室に、一組の男女が入ってきました。年配の痩せた男性は、脚が悪いのか杖を突いていました。女性はまだ若く、黒眼鏡に白い杖の視力障害者でした。妻が「親子なのか夫婦なのか、分からないわネ?」と言います。この場合は日本語なので、まず聞かれても大丈夫です。二人は車室の隅に坐ると、袋からパンを取り出しました。見ればビニール袋に、細いパンが10本くらい入っています。傍の妻が、「安売りのパンかしら?」と言う。さらに二人はサラミを取り出し、パンと交差に食べて始めました。どうやら、早い夕食のようです。「パンに挟んで食べないのネ!」と、妻の観察は鋭い。男は時々、私たちに鋭い視線を向けます。どうやら、私たちに関心を抱いているようです。私は突然、「ここで、ご挨拶を」と思い付きました。そこで手元のチェコ語会話集を見ながら、まず「ドブリー・ヴェチェル!(コンバンハ)」と挨拶をしました。これは簡単に通じて、二人とも「ドブリー!」と言ってくれました。さて次は自己紹介に「イメヌイセ・ツノダ(私は角田です)」と言ってみましたが、これが全然通じません。棒読みにしたのでは、チェコ語は通じないのです。仕方がないので「トウキョウ!」と自分を指すと、「アー、トウキョウ」とうなずいてくれました。次に「どちらへ行くのですか?」と聞きたいのですが、何と言って良いか分かりません。仕方がないので「プラハ?」と聞きますと、「アノ(はい)」と言います。チェコ語の「はい」はアノで、「いいえ」がネです。忘れたら、「アノネ」と覚えると良いようです。さて列車は、私たちが降りるオロモウツに着きました。車室を出る際に「ジェクイ(有り難う)、ナ・スフレダノウ(さようなら)!」と挨拶して、二人と固い握手を交わしました。今のチェコは弱肉強食の資本主義に戻り、貧富の差が激しいと聞きます。ハンディキャップを背負って、厳しい社会を慎ましやかに生きる二人に「幸あれ!」と祈って別れを告げました。
ヤロさんの案内で訪ねた場所を、もう一ヶ所紹介しよう。10月14日朝、8時半に駅へ向かう。いつもヤロさんが迎えに来てくれるが、今日は私たちだけでヤロさんが待つプシェロフへ向かう。行く先が近いので周遊券は使わず、今回は自分たちで切符を買う。「P?erov」と書いた紙を見せて、無事に切符を買えた。たぶん口で言ったのでは、手間取ったに違いない。運賃は22kmで、46コルナ(約230円)は安いのだろうか。さて今日は土曜日とあってか、ピクニックの団体で始発の車内が混雑している。9時07分に発車した列車は、20分余でプシェロフに着きヤロさんと合流する。再び向かいのディーゼルカーに乗り、モラヴィアの山地に分け入る。二度乗り換えて、「ロジュノフ・ポッドゥ・ラドゥホシュテム(Ro?nov Pod Radho?t?m)」に着く。チェコ語の文字は、ローマ字の上に特殊な記号が付き難解だ。駅を降りて歩くこと15分で、前方の林に古い村落が見えてきた。ここがヤロさんの言うチェコの明治村、「ワラキア自然村」であった。広々とした丘陵の中に、古い村落の建物が点在している。ヤロさんによれば、かつてワラキア人がこの地に住んでいたと言う。彼らの農家や作業所をここに集めて、村落を保存したそうだ。なるほど、確かに「チェコ版明治村」ではある。私たちはガイドに従って、村内を歩く。水車を利用した鍛冶場や製粉所から、農家の納屋など見て歩く。紅葉が始まった林に、家並みが点在する風景は一幅の名画を見る思いだった。
もう午後1時になったので昼食はと考えていたら、一軒の農家がレストランであった。これも、ヤロさんのプランに入っていたのだ。さっそく地ビールと、郷土料理を頂く。出された料理は、何とソバの実のチャーハンだった。ソバの実と聞いて固いかと心配したが、柔らかく旨い味付けがされていた。かくして紅葉で黄金色に染まったワラキア自然村は、「花も団子も」の訪問となった。
コスモス;
「これが、ソバの実のチャーハンで す。脇にあるのは、もちろんビール で、グラス一杯100円は安い」
オロモウツ 「オロモウツを見下ろす丘に建つSvat? Kope?ek(聖なるコペチェク教会)です。私たちのホテルからも良く見えました」
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2006年秋;チェコの旅 (その2) チェコ鉄道、ローカル線の旅 (文責)角田昌夫 |
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| ここ「オロモウツ」に8泊した目的は、親友ヤロさんに再会し彼の案内でモラヴィア地方を見て歩くためであった。ところでヤロさんは前の仕事を辞め、次の仕事の準備に向け訓練校に通っている。彼は語学の天才で、母国のチェコ語の他にドイツ語、ロシア語、フランス語、そして日本語を話せる。ただ英語だけは手を抜いてきたので、目下は英語の特訓に励んでいるらしい。私たちの滞在中は授業をやりくりして、毎日あちこち案内してくれた。
ホテル「シグマ」の窓から見たオロモウツ駅の日の出です。 ヤ ロ さ ん と
の 再 会 モラヴィア地方を訪ねる ここモラヴィアの中央部は低平な原野だが、北部へ行くにつれて山地になる。ルーマニア方向から延びてきた「カルパチア山脈」が、スロヴァキアへ入って「タトラ山地」を形成する。そのタトラの末端が、モラヴィアの山地となってポーランドとの国境となる。私たちはヤロさんの案内で、その山地を目指した。まずオロモウツの駅から列車に乗る。ヤロさんは、事前に私たちの切符を用意してくれていた。オロモウツの駅は、駅舎内にスーパーやレストランなど各種の店がある。また外貨の両替や、列車の予約をする窓口もあった。ここで妻が、日本円で1万円を両替した。
オロモウツ駅の正面です。 屋上には、チェコ国鉄のシンボル(真ん中に車輪と、両脇に翼)が見えます。壁の文字は、コマーシャルでした。 ホームへ出ると、3番線に列車が入ってきた。各駅停車の2等車は、土曜日とあってか満員である。コンパートへ入ると、突然の異国人出現で一斉に好奇心の視線を浴びる。大人は好奇心を現さないが、子どもはあからさまに視線を向ける。これは、万国共通の現象なのだろうか。ともかく土地の人々と対面できるのが、ローカル線の醍醐味であろう。
電気機関車が引く列車が、到着しました。幹線は電化され、ローカル線はディーゼルカーが運行されていました。青と白が、チェコ国鉄カラーです。 さて8時37分に発車した列車は、9時07分に隣り町「プシェロフ(P?erov)」に着く。ここで列車を降り、向かいのホームのディーゼルカーに乗り換える。今度は車輪が前後に一軸ずつある車両で、いわゆる「レールバス」である。同じ形式の「ペイサー型」には、イギリスのローカル線でずいぶんお世話になったものだ。外見を見て、とっさにイギリスから輸入した中古車両かなと思った。しかしメーカーは分からなかったが、どうやらチェコの国産らしい。チェコは戦前から、機関車、客車から戦車、トラックなど、各種交通車両を造りだしてきた老舗なのだ。
新型のディーゼルカーも見た。 乗り換えた列車は、ディーゼル音も高らかに勾配を上る。沿線の風景は次第に平原から丘陵へと変わり、黄色に紅葉した樹木が林立する。赤い葉が少ないので、眼前には正にゴールデン・チェコ(黄金のチェコ)が出現した。林の中を流れる清流は、モラヴィア川の支流を成す。この川は流れ流れて、ドナウ川から黒海に注ぐ。一方では行く手の山が分水嶺となり、オドラ川(ドイツでオーデル)の源流が北に向かいバルト海へ注ぐ。列車は、ヨーロッパの分水嶺を目指して進む。途中で二回乗り換えて、「Kop?ivnice」に着く。この地名はチェコ語独特な発音表記なので、日本語では書き表せない。特にローマ字のRが「?」になる文字は、何とも得体がしれない。もっとも、チェコ人から見れば、我が日本の漢字、平仮名、カタカナも得体が知れないのだろう。時刻は午後1時を過ぎたが、ヤロさんには昼食の素振りがない。空腹を押さえていたら、街中の中国料理屋に案内してくれた。まずは、ビールと焼ソバで昼食を摂る。チェコはビールの本場だけに、今回の旅では昼食・夕食と食事のたびにビールを飲んだ。それも各地に地ビールがあるだけに、味も多種多様で格別であった。
タ ト ラ 博 物 館 を 見 学 のロシア戦線で、酷寒や泥濘の中でドイツ軍に酷使された「タトラ」のトラックが思い出す。タトラの車両との思わぬ出会いに、ヤロさんの案内に感謝した。馬車の時代から創業のタトラ社は、スロヴァキアのタトラ山地で試験走行したことから「タトラ」の会社名を付けたそうである。館内には創業時代の馬車から、初期の自動車やスポーツカー、チェコ元首相のマサリクが使用したリムジンや、写真でみたロシア戦線のトラックまで貴重な車両が並んでいた。また当地はヘルシンキ・オリンピックの覇者「エミール・ザトペック」の生地とあって、ザトペック記念館も併設されていた。
これがタトラのトラックです。
戦前の流線型高速列車もありました。 列車の旅あれこれ;その1 ブルノから乗った列車内でのことです。私たちの車室に中年の男性が入ってくると、ペラペラとチェコ語で早口にまくし立てました。突然のことに呆然とした私は、とり合えず「トウキョウ!」と言ってみました。彼は「アー、トウキョウ」と言った後で、「オーサカ」と返しました。何か大阪に、縁があるのかも知れません。彼は私と妻の顔を交差に見ながら、両手を前に広げて上から下へと降ろします。それを盛んに繰り返す彼のジェスチュアに、妻が「私たちの顔の幅が広いと言っているのかもネ」と言う。なるほど改めて妻の顔を眺めたら、確かに広い。それに較べて、チェコの人の顔が狭いこと。若い女性など、ギリシャ彫刻のように細面だ。しみじみと、妻の顔を眺めた一幕だった。
オロモウツの市電です。 市内には、路面電車が網の目のように走っています。型式も新旧さまざまで、色もカラフルでした。私たちは切符の買い方が分からず、結局タダで乗ってしまいました。無賃乗車が見つかると、高額の罰金を取られるそうです。見つからず、ヤレヤレでした。右に立つのが、我が妻です。 |
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英国鉄道 全路線網羅 された角田昌夫様 久々の鉄道旅行 お話・お写真頂きました。 ●東欧レイルパス1等10日間 ご利用 2006/10/6 〜 10/27 |
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2006年秋;チェコの旅 (その1) ウィーンから、列車でチェコへ (文責)角田昌夫
2006年10月6日、私たち夫婦は空路ウィーンに飛んだ。目的は、チェコの友人「ヤロスラフさん(愛称;ヤロさん)」と再会することだった。ヤロさんとは前回のチェコ旅行で出会い、翌年来日したヤロさんは、会津の我が家にも泊っていった。今回は、謂わばお返しの訪問ということになった。鉄道好きな私は、オーストリアのウィーンから列車でチェコ入りすることにした。
さて10月8日午前10時半、私たち夫婦はホテルを出ると、ウィーン南駅へ向かった。目ざす4番ホームには、すでにEC172(国際特急VINDOBONA号)が入線していた。午前11時08分にウィーンを発車する列車は、チェコのプラハを経由して夜の10時にドイツのハンブルクに着く国際列車である。 今回の旅は「MAXVISTA旅行社」のお勧めで、東ヨーロッパ周遊券の一等を購入しておいた。この券は1ヶ月内に10日乗車でき、値段は4万7800円であった。周遊券の利点は、いちいち駅の窓口で切符を購入する必要が無いことだ。慣れない外国の駅で、切符を購入することは煩わしい。また混雑の場合を考えて、一等の周遊券を購入した。更に今日は日曜日なので、列車の混雑を予想して前日に駅の窓口で座席指定券を購入しておいた。その際には、メモ用紙に列車名や乗車区間など記入して差し出すと間違えがない。私たちは、一等の263号車55・56の席を確保して置いた。後で分かったことだが、日曜の朝は比較的空いている。むしろ金曜日辺りから、乗客の移動が始まるようだ。なお座席指定料として、一人3.40ユーロ(約500円)を支払った。ヨーロッパの主要駅では、窓口に英語を話す職員がいて安心である。 「終点はハンブルクのEC172列車で、ウィーン南駅からチェコに向かいます。最後尾が、私たちの乗る車両です」
さてホームの最後尾にある私たちの車両、263号に乗り込む。車両はクリーム色に赤い線が入り、 大きな文字で「DB」と書かれている。これは「ドイツ国鉄」の車両だ。ホームが低いヨーロッパの駅では、いつもながら大きなトランクを持って列車に乗るのは一仕事だ。ともかく指定席におさまったが、見渡せば60席はある開放式車内(コンパート形式ではない)はガラガラ。結果的には、座席指定を取ることはなかった。 一般にヨーロッパ大陸の長距離列車は、未だに機関車牽引の客車列車である。1編成で10両前後の客車の7両が二等車、2両が一等車、そして嬉しいことに食堂車が未だに運行されている。私たちの車両の前が、食堂車だった。 11時08分の定時に、ゴトンと列車は静かにホームを離れた。日本のようにうるさい発車のベルやアナウンスがなく、あくまでも乗客本人の責任で乗車するのがヨーロッパ流であろうか。列車はまもなくドナウの鉄橋を渡ると、ウィーンの郊外を走る。きちんと耕された畑や、家々の窓に飾られた花を眺めつつ列車は驀進する。レールの補修が良いのか、130kmくらいのスピードは出している。間もなく、オーストリアとチェコのパスポート検査官が現われた。それぞれ2名ずつの4名で、うち一人はうら若き女性検査官だ。チェコがEUに加盟しても、パスポート検査はするらしい。オーストリアの男性検査官は、私たちのパスポートにスタンプを押すと「ダンケ・シェーン!」と言った。
さて、ここブルノこそ、我が親友の「ヤロさん」と初めて出会った場所だ。6年前のチェコ訪問の際に、この駅の改札口でヤロさんから声を掛けられたのだ。当時はチェコ国鉄の車掌だったヤロさんが、制服姿で私に声を掛けた。しかも、日本語で「アナタハ、コレカラ、ドチラヘイクノデスカ?」と。かくして、ヤロさんとの友情が始まった。さっそく駅舎に入り、ヤロさんと出会った場所を確認する 「思い出のブルノ駅;この駅舎で、ヤロスラフ(愛称;ヤロさん)に出会った」 さてブルノ駅で、昼食を摂ることにした。ここは前回訪問して、勝手知ったブルノ駅だ。駅舎内のレストランに、妻を案内する。天井から壁まで彫刻で飾られたレストランは、なかなか時代物の建物のようだ。ここでウェイターに、チェコ語で「ドーブリ・デン(こんにちは!)」と挨拶する。スパゲッティとサラダにコーヒーを、二人分で約700円とは安い。感覚的には、日本の物価の半分以下だ。昼食を終えて、オロモウツ行きの列車を待つ。
改札口の表示は、2番線と出ている。ところが、ホームへ行くと表示が出ていない。何と無く不安で、女性の駅員に「オロモウツ?」と聞くが「分からない」と首を振る。しばらく待つと、ホームも表示が2番線と出た。念のため男性の車掌らしい人に聞くと、ホームの後ろの方へ行けと言う。14時30分頃、列車が入線してきた。この列車が分割されて、後半部が「オロモウツ」へ行くらしい。客車の行く先表示板を見ると、確かに「OLOMOUC」と書かれていた。ヤレヤレ、これで何とかオロモウツへ行ける。異国で列車に乗る時は、何かと気を遣う。特に列車が遅れたり、ホームが変更されたりすると大変だ。これはイギリスでも、フランスでも、そして今回のドイツでも体験した。 列車は、モラヴィアの丘に沿って走る。今度の車両は、コンパート(車室)形式だった。しかも各駅停車の2等車なので、先客万来で駅ごとに相客が入れ替わった。一般庶民と交わるには、ローカル線の2等車に限る。但しチェコでは英語が通じないので、会話が弾むことはない。汗ばむ空気の中を列車は走り、16時22分に目指すオロモウツ駅に無事到着した。かくして、オーストリアのウィーンから、チェコのオロモウツまで列車の旅を終えた。
オロモウツでは、友人のFさん御用達の駅前ホテル「シグマ」に泊る。駅前ホテルと言っても、なかなかの造りだった。結局このホテルには、前8泊後2泊の合計10泊した。Fさん推薦のとおり、朝食のバイキング、夕食には2階の中国料理と何かとお世話になった。チェコ滞在の思い出には、このシグマ・ホテルも一役かってくれている。次に泊る方には、私の推薦状も付けてあげたい。 前後10泊した「シグマ・ホテル」です。 いよいよ「ヤロさん」の登場です。 駅前の広場に、聳えています。 日本酒で、乾杯しました。
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2006年秋・チェコの旅 (文責)角田昌夫 2006年の秋、6年ぶりに海外旅行をしました。その主な目的は、チェコにいる友人「ヤロスラフ(通称;ヤロさん)」を訪ねることでした。以下、旅の訪問先を日程に追って報告致します。 ◎ 成田発;10月6日、ウィーン着;同日 1.ウィーン(2泊);10月6日〜7日 ベルベデーレ宮殿、ドナウ公園・ドナウタワー 2.オロモウツ(8泊);10月8日〜15日 国際特急、ヤロさんとの再会、オロモウツ市内見学、モラヴィア地方の各所を訪問(ヤロさんの案内による)、タトラ自動車博物館、ワラキア自然村 3.ドレスデン(4泊);10月16日〜19日 ペンドリーノ(チェコの高速列車)、国際特急、ドレスデン市内・聖母教会、ザクセンのスイス(バスタイ橋)、バウツエン(スラブ人居住地域)、ピルナ(ナチスの障害者安楽死施設) 4.オロモウツ(2泊);10月20日〜21日 モラヴィア川源流(ヤロさんの案内)、ヤロさんとのお別れ会 5. ブラチスラバ(2泊);10月22日〜23日 ドナウ川散策、ドナウタワー、ブラチスラバ城、旧市街見学 6. ウィーン(2泊);10月24日〜25日 グラーツ訪問 ◎ウィーン発;10月26日 成田 着;10月27日 |